『 愛あるところに神あり 』 

2024年12月15日(日)
CS合同こどもクリスマス礼拝
マタイ25:35-40

イエスさまは今から200年前、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。たった一度のことです。幼な子は成長し、人々に神さまのことを語る働きをするようになりました。貧しい人を救い、偉そうに威張る人を叱られました。そしてそのために十字架に架けられ殺されてしまいました。しかしキリストは復活し、神の元に昇って行かれました。

そのイエスさまのお生まれを祝うのがクリスマス。毎年毎年「イエスさまを迎える準備をしましょう」と言われます。何回生まれるの?それは1回だけです。そして33歳で十字架に架けられ、復活して昇天された。つまり地上からはいなくなったのです。

じゃあ、イエスさまには生きておられる時に会った人しか会えないの?そうではありません。昇天される前に言われた言葉があります。「私は世の終わりまであなたがたと共にいる」。いなくなったイエスさま、直接会えないイエスさまが、「いつも一緒にいる」、いつでもイエスさまに会える、と言われるのです。

いなくなった、見えないイエスさまを「お迎えする準備をする」って、どういうことなんでしょう?そのことを分かり易く教えてくれる物語があります。「くつやのマルチン」というお話です。

マルチンは腕のいい靴屋です。ある日の夜、不思議な声を聞きます。「明日お前の所に行くから迎えておくれ. . .」それはイエスさまの声でした。

次の日目覚めると雪が降っています。雪かきおじさんが寒そうに働いています。マルチンはおじさんに声をかけ、家の中で暖かいお茶をごちそうしました。おじさんはお礼を言って仕事に戻っていきました。おじさん元気になったけど「イエスさまはまだ来ない」。

しばらくすると、貧しい身なりの女の人が赤ちゃんを抱えて通りかかりました。「あれじゃあ赤ちゃんが凍えてしまう. . .」マルチンは女の人を家に招き入れ、食事や暖かい着物を分けてあげました。女の人は元気になったけど「イエスさまはまだ来ない」。

夕方ごろ「どろぼう!」という声に驚いて外に出てみると、りんごを盗んだ子どもがおばさんにつかまって叱られていました。貧しさでお腹が空いていたのです。マルチンは「私が代金を払うから、許してやってくれないか」と言いました。おばさんと子どもは仲直りしてニッコリしたけれど、「イエスさまはまだ来ない」。

「とうとうイエスさまは私の所に来られなかったんだ. . .」そう思い寝ようとしたところ、「マルチン、今日はありがとう」という声が聞こえました。「私が分からなかったのかい?雪かきおじさん、貧しい女の人、りんごを盗んだ子ども、あれはみんな私だったんだよ」。隣人に愛を届けたマルチンの行ないは、すべてイエスさまにしたことだったのです。

この物語を書いたのはトルストイというロシアの作家です。その原題は「愛あるところに神あり」。人々の愛の行ないがなされているところに、神さまもおられる、ということです。そんな形で、私たちはいつでもイエスさまに会えるのです。