2025年1月5日(日)
エレミヤ31:15-17, マタイ2:13-18
あなたは自分が生まれた日に起こったことを、親から、あるいはそれをよく知る人から、聞かされたことはあるだろうか。
昨年元日に能登半島を襲った大きな地震、その震災の起こった日に生まれた赤ちゃんがいる。余震や津波の不安の中、大変な出産だったと思うが、関わった人々に希望も与えたことだろう。そしてその子は今後、自分の生まれた日のことを何度も語り聞かされることになると思う。「あなたが生まれた日、こんなことがあったのよ」と。
イエスが生まれた時にも尋常でない出来事が起こったことを聖書は伝える。東方の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と訪ねたのは、当時の王・ヘロデのところであった。そのことが、その後大きな悲劇を生んでしまったのである。
博士たちは幼な子に出会えたが、夢のお告げによってヘロデに知らせずに帰っていった。博士たちが無断で帰ってしまったことを知って憤ったヘロデは、最悪の反応をした。ベツレヘム近辺の2歳以下の男の子を皆殺しにせよ、との命令を下したのである。
こうしてベツレヘム周辺では子どもを殺された親たちの泣き声があふれた。マタイはそれをエレミヤの預言の成就と解釈する。しかしヨセフとマリア、そしてイエスの家族3人は、やはり夢のお告げによってエジプトに向かい、難を逃れた。
この箇所について、かつてこんな解釈を読んだことがある。「かかるヘロデの謀略をもってしても、み子イエスの命を奪うことはできなかった。聖家族は守られた。何と大いなる神のご計画!」。これを読んで「冗談じゃない!」と思った。イエスが難を逃れた傍らでは、ちいさないのちを奪われた多くの母の悲しみがあったのだ。「それが神のご計画?そんなわけないだろう!」と思ったのである。
むしろ私はヘロデの暴挙を押さえられなかった「神の無力」を感じる。神さまにできることは、せいぜい「危ないから逃げろ!」ということぐらいだった. . .。それでは頼りないだろうか。でも「神のご計画」とは、そういうものではないだろうか。横暴な権力者によってちいさないのちが奪われる現実がある時、神さまであってもそれを「上からの力」で押さえつける力はない。「私はそれを望まない」と示される. . .それだけである。そういうものではないだろうか。そこからあと、横暴な権力者の暴挙を防ぎ止めるのは神さまの仕事ではなく、私たち人間のなすべきことなのではないだろうか。
ところで、ひとつ気になることがある。イエスはこの幼児虐殺のことを知っていたのだろうか?ということだ。推測の域を出ないが、この惨劇のことはエジプトのヨセフ家族にも伝えられただろう。そして両親はイエスに成長の節目ごとにその出来事を伝えたのではないだろうか。「あなたが生まれた日、こんなこと悲しいことがあったのよ」と。
自分が生まれた、そのことのために、何人ものちいさないのちが奪われる出来事があったということ、そのことへの負い目や責任感. . .それがイエスの人格を作る一つの要素になったのではないかと思うのである。カトリック教会ではこの時殺された子どもたちを「最初の殉教者」と位置付けるという。イエスのあの隣人に愛を届けるひたむきな生き方、ある意味いのちを賭けてその愛を貫く姿は、その殉教者たちに応える歩みをしなければならない. . .そんな決意に裏打ちされたものなのではないかと思う。
現代においても、喜びの陰で泣く人がいる。今年のクリスマス、ベツレヘムの聖降誕教会ではガザ地区の紛争を覚えて、クリスマスの賑やかな行事を中止し、ただひたすら平和を願う祈りをささげたという。そんな中、前橋教会では今年も喜びのクリスマスを祝った。喜び祝うこと自体は間違いではないだろう。しかしその喜びに浮かれてしまい、その陰で泣く人を忘れてしまったならば、私たちが救い主の誕生を祝うその喜びに一体何の意味があるのだろうか。そのことをしっかりと考えたい。
ちいさないのちが奪われる. . .そんな悲しい現実が世界には存在する。しかしその世界に、愛によって共に生きる歩みを教え、そしてちいさないのちが守られ、明日も目覚められるような世界を築くために、イエス・キリストは世に来られた。私たちもそんな世界を目指して歩みたい。大きなことはできなくても、まず自分の身近なところからそんな世界を、今年も作り出してゆきたい。