2025年3月16日(日)
申命記30:15-20, マタイ12:22-32
旧約の箇所・申命記30章には「わたしは『命と幸い』『死と災い』をあなたの前に置く」と記されている。「あなたの前に置く」、つまりあなたが選びなさい、ということだ。神は人間を正しい道に無理やり押し込まれるのではない。正しく生きるのも、罪を犯すのも、あなたの自由だ、と委ねられる。「原罪」とは強制された宿命ではなく、私たちの選択の結果なのだ。
新約の箇所は、イエスによってなされた悪霊憑きの癒しと、その後に起こった論争についての記述である。イエスのなされた癒しの業を見て、群衆は「ダビデの子だ!」と騒ぎ出した。するとそれを妬んだファリサイ派の人々が「あれは悪霊・ベルゼブルの力で追い出しているだけだ」とケチをつけた。鬼気迫る表情で癒しにあたるイエスの姿を見て、そのように揶揄したのであろう。
イエスは「私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたがたの仲間は何の力で追い出すのか」と返した。この言葉から、ファリサイ派の中にも悪霊憑きの癒しに取り組んでいる人がいたことがうかがえる。「自分たちも同じことをしているのに、どうして一方が正しく一方は間違っているなどと言えるのか」とイエスは言われるのである。
では、クレームを避けるために、悪霊憑きの癒しには関わらない方がいいのか?そうではない。イエスにとって悪霊に憑かれて苦しむ人が癒される(救われる)ことは、何よりも大切なことだった。手段や方法の「正しさ」が大事なことではなかったのだ。
イエスは言われる。「私が神の霊で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。ひとりの人が救われる、その出来事の中に神の国はあるのだ、と。私は、イエスならば「たとえ私が悪霊の力で癒しているように見えたのだとしても、それでもそこに神の国は来ている」、そう言われたのではないかと思う。
ところで、イエスは「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われた。「あなたたち」とは誰のことか?文脈からすれば、それはイエスにクレームを付けたファリサイ派の人たちのことであろう。「どのような方法であれ、ひとりの悪霊憑きの人が癒された(救われた)。そこに神の国は来ている。あなたはそれを受け入れるのか。」イエスはそう問われるのである。
31‐32節では「人が犯す罪や冒涜は赦される。人の子に言い逆らう者も赦される」とも言われる。ある意味、ファリサイ派の誹謗中傷に対する赦しの宣告でもある。イエスは決して初めから対立することを望まれるのではない。
しかしズルズルとどこまでも譲歩し、彼らの言い分を頭から認められるのではない。「しかし聖霊に対する冒とくは赦されない」。聖霊、即ち神の救いへの導きを拒む者は赦されない、とはっきりと言われるのである。
けれどもイエスは決してそれを押し付けない。問いかけられるのである。「いのちと幸い」「死と災い」があなたの前に置かれている。あなたはどっちを選ぶのか、と。