「なぜ見捨てるのか? 」 

2025年4月13日(日)
哀歌5:15-22, マタイ27:45-56

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!?」 ― 十字架上のイエスの最後の言葉である。それは絶望の言葉であり、断末魔の叫びである。イエスは知っておられた。神の愛を貫く自分の生き方を続けてゆけば、必ずそれを不快に思う人に弾圧され命を奪われることを覚悟しておられたのだ。

だからイエスは偽証だらけの裁判でもひと言も弁明や命乞いをせず、「お前はそれでも神の子か!?」と罵倒されても反論せずに、黙々と十字架への道を歩まれた。しかし、最後になって「なぜ見捨てるのか!?」と神に向かって叫ばれる。このことをどう受けとめればいいのだろうか。

このような言葉は救い主にはふさわしくない...そう考えたのか、ルカとヨハネは別の言葉に置き換えている。ルカは十字架の上で敵を許す姿を記し、「私の霊を御手に委ねます」と語る姿。ヨハネは「私は渇く」「成し遂げられた」と大見得を切る大往生。それらに比べると、マルコ・マタイの伝える最後の言葉は、あまりにも悲劇的で絶望的に思えてしまう。

これをイエスの信仰告白と受けとめる「ウルトラC」の解釈がある。詩編22編を暗唱しておられた、というものだ。この詩編は確かに冒頭は「なぜ見捨てられるのですか」との言葉から始まる。しかし途中で自分の罪の告白の言葉に移り、最後は神への賛美で終わっている。そのような形で信仰を告白して最期を迎えられたのだ...そんな解釈である。

「正義のヒーローに泣き言は似合わない」...そう思う気持ちはわかるが、やはりどこか無理筋の解釈だと思う。これはやはり絶望の叫びなのだ。「立派な神の子」の言葉ではなく、ひとりの人間の生身の言葉と受けとめたい。「人間とは異質の超人」があのような生涯を歩みあのような死を迎えた...というのではなく、私たちと同じ生身の肉体と心を持ったイエスがその道を歩まれたというところに、意味がある。

では、この最後の言葉を私たちはどう受けとめればいいのか。神への抗議、反逆の言葉をもって最期を迎えられた、ということだろうか。

私は、この言葉は一義的には神への抗議や悪態とも思える言葉だが、これをもってイエスの神への信頼が完全に無くなったわけではない...そう受けとめたいと思う。むしろこの言葉は、イエスの神に対する「それでも無くなることのない信頼」、その裏返しの言葉なのではないかと思うのだ。

エレミヤは「嘆きの預言者」であった。しかし神への信頼を失ったわけではない。むしろ逆である。バビロン捕囚を巡るこのような苦しみの中でも、それでも世界の造り主を根源的には信頼している...だから彼はためらうことなく嘆きを語れたのだ。幼い子どもが信頼するからこそ母親に悪態をつくことができるように...。

「なぜ見捨てるのか?」このイエスの嘆きも、エレミヤの嘆きに重なるものだと思う。しかしその嘆きの言葉に、神が十字架を取り巻く状況の中で応えられることはなかった。イエスは本当に神に見捨てられてしまったのだろうか?

(来週につづく...)