「 聖霊に押し出されて 」 

2025年6月15日(日)
イザヤ6:1-8, エフェソ1:11-14

先週、ペンテコステ礼拝の前日、新島学園中高聖歌隊の定期演奏会に出かけてきた。この定演をもって引退する3年生3人だけによるハンドベルの演奏を聴いて心が熱くなった。ペンテコステ前日に、聖霊による導きを受けた思いがした。

聖霊の導き、それは聖書が示す神さまからの働きかけのことである。人間には神さまのことは本当のところは分からないのだが、キリスト教ではそれを3つの手がかりによってとらえようとしてきた。すなわち、「父・子・聖霊」による「三位一体の神」である。

父なる神=造りぬし、子なる神=救い主イエス・キリストに比べて、聖霊なる神は一番とらえどころがないように思える。ある意味、得体の知れない世界(怨霊、霊媒師)にも流れてゆきかねない世界である。しかし聖書は、いろいろな形で聖霊の導きを受けて歩む人の姿を通して、その働きを表そうとする。その一人が旧約の預言者イザヤ(初代)である。

今日の箇所はイザヤの召命の場面である。普通預言書は時代背景や周辺諸国との関係といった、社会情勢と共に解釈することが多い。しかしこの箇所はそのような情勢から離れて読んでも、一人の人間が大切な役割を託され引き受けてゆくといった、誰にでも起こり得る状況へのメッセージとして読むことができる。

ある日イザヤは幻の中で不思議な光景を目の当たりにする。神殿の周りでセラフィム(天使)が飛び交い、神を賛美する光景である。これは通常、人間が見ることができない神の世界を垣間見たということになる。イザヤはつぶやいた。「災いだ。私は滅びる。罪人である私が神を見たからだ」 . .」。“神を直接見たものは死ぬ”そんな信仰がイスラエルには古くからあった(ヤコブ、モーセ)。

するとセラフィムの一人が燃える炭火をイザヤの唇に当て、「あなたの罪は赦された」と語った。イザヤが何か功績を挙げたからではない。神の一方的な罪の赦しが宣言されるのである。

イザヤは次なる神の言葉を聞く。「誰を遣わそうか。誰が我々に代わって行くだろうか」。直接イザヤに名指しで語られた訳ではない。しかしその言葉を聞いてイザヤは応える。「ここに私がいます。私をお遣わし下さい」。

預言者の働き、それは声をかけられて二つ返事で引き受けられるほど簡単なものではない。時に迫害に遭うこともある、大変な仕事である。それをイザヤは引き受ける。強要されてではなく、逃げられない状況に追い込まれてでもない。あくまで自発的意思で。しかし聖書は、その決意の背後に聖霊の導きがあったと語るのだ。

そのような聖霊の導きをどんな言葉で表したらいいだろうか。それは「そっと背中を押す」という言葉に尽きるのではないだろうか。聖霊に押し出される形で、イザヤは預言者の召命を受けとめる。いやいやではなく、心に喜びを感じながら. . .。その聖霊の風は、今日私たちに吹きかけられているのである。