2025年6月29日(日)
フィリピ2:12-18
「生まれて来てよかった、と思えること」 ― これは私が牧師として語るべき最もコアなメッセージだと思っている。まず自分自身がそう思いたい、出会う人にそう思ってもらいたい. . .そんな願いを持って牧師をしている。The Boom の“風になりたい”の「生まれてきたことを、しあわせに感じる/カッコ悪くったっていい、あなたと風になりたい」を何度礼拝で歌ってきたことだろう。
そんなメッセージの時に選ぶのが今日のテキスト・フィリピ2:12-18である。「自分が走ってきたこと・労苦してきたことが無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」とあるように、人生最後の日に「生まれて来てよかった」と思ってその日を迎えたいと思っている。
ところが先日の新聞で、そんな私にとって驚愕の哲学ジャンルがあることを知った。「反出生主義」。自分が生まれてきたことを否定的にとらえる哲学の思考である。
太宰治の「生まれてすみません」のような、厭世気分を持つ人がいつの時代にもいることは知っている。でも、だからこそ「生まれてきたことの喜び」に出会って欲しい. . .そう思って語ってきた。しかし反出生主義では、「そのように考えることは悪いことではない。むしろ理に適っている」. . .そう考えるのだという。
第一人者、デビット・ベネター氏は『生まれてこない方がよかった』という著書の中でその論理をこう説明する。「誰の人生にも快楽と苦しみがある。苦しみがあることは『悪いこと』、苦しみがないことは『良いこと』。では快楽は?あったら『良いこと』だが、なくてもそれが『悪いこと』ではない(『悪くはない』)。この非対称性から導き出されるのは『苦しみは悪いことだが、喜びはなくても困らない』というテーゼであり、だったら生まれない方がいいと結論づけられる」。
正直、この理屈に私は賛同できないものを感じるが、このような考え方に共感する人が一定数いるという。それだけ、現実の社会に対し苦難や絶望を感じる人がいるということなのだろう。「そんな社会に、人は何が何でも生まれなければならないのか?」という問いに答えるのは簡単ではない。平和で豊かな社会に生まれた人はいいが、紛争地・戦争が行なわれている国や、飢餓に苦しむ社会に生きる人から、「どうしてこんな社会に生まれてこなければならなかったのか?」と問われた時、能天気な楽天主義では答えられないだろう。
視点を変えれば、人間という種は地球にとっては「やっかい者」である。戦争・差別・暴力・環境破壊. . .そういった人間存在の弊害を思えば、人類が徐々に世界から退場することは地球にとっては「いいこと」なのかも知れない. . .そんな風にも思えてくる。
しかしそれでも私の中には、生まれてきたことに対する根拠のない希望が抜きがたく存在しているのを感じる。だしかに人生には苦しみがつきまとうかも知れない。しかしどんな過酷な人生にも、一瞬かも知れないが小さな喜びの時が訪れると信じているからだ。
映画『フーテンの寅さん』の名シーンを思い出す。甥っ子の満男から「おじさん、人間って何のために生きてるのかなぁ」と問われた寅さん、少し考えてこう答えた。「難しいこと聞くなぁ. . .ほら、なんだ. . .『あぁ、今日は生きててよかった』と思う日が何べんかあるじゃない!?そういう日のためにオレたちゃ生きてるんじゃねぇかなぁ。」パウロの語る「キリストの日」とは、必ずしも人生最後の日だけではなく、「生きててよかった」と思える出来事が向こうからやって来る、そんな一瞬のことなのかも知れない。
先週訪ねたこども園で、入園している子どもから、私の作ったこどもさんびか「この花のように」を基にした手作りの絵本をもらった。この絵本を園で先生たちに配って募金をし、教会に献金をしたいということらしい。目を輝かせて絵本と献金を届けに来てくれた、そのみずみずしい行動がうれしくて、家に帰ってそのことを妻に伝えていたら涙が出て来て、夫婦で泣いた。こんな喜びが自分の意図せぬところからやって来てくれる。そんな日のために私たちは生きているのではないだろうか。