「心の豊かさって何だ? 」

2025年7月6日(日)
申命記26:5-11, Ⅱコリント8:1-15

「おい!人!心の豊かさって何だ?」「分け合うことかなぁ…」「分けたら食べる分が減るだろう?」「でもうれしさが増えるでしょ?」… 現在放映中のTVのCMのセリフである。

かつてライブハウスで知り合った共愛OGの女性の言葉を思い出す。「私、決して模範的な生徒じゃなかったけど、礼拝でのお話は憶えてる。いちばん憶えてるのは『奪い合えば足りなくなる。分かち合えば満たされる』。卒業後、ずっとこの言葉を大切に生きてきました」。かつての少女の心に大切な言葉を残した、共愛学園の教育の成果を思う。

今日の旧約は申命記に記されたユダヤ最古の信仰告白である。出エジプトの救いを与えてくれた神の業が語られ、その神を信じて生きる告白がなされる。その告白に続けて命じられているのは、得た収穫を感謝して神に献げ、その後「寄留者・孤児・寡婦」と分かち合うことである。

今世界では移民排斥・外国人排除の風潮が強まっている。日本もその例外ではない。しかし聖書のメッセージは「寄留者(異邦人)と分かち合いなさい」というものなのである。

「孤児・寡婦」とは、社会で最も弱い立場・支えを必要としている人たちを象徴している。それらの人たちと共に生きる者になりなさい、その振る舞いの中にこそ心の豊かさがあるのだ...それが聖書のメッセージである。

新約は、コリントの教会の人々に向けて、パウロがある教会の素晴らしい取り組みを紹介している箇所である。その教会とはマケドニアの教会。パウロが建てたフィリピ、テサロニケといった街にある教会のことだ。

パウロの生涯は、キリスト教の伝道であることはよく知られるが、最晩年に取り組んだのは、ジリ貧となっているエルサレム教会への支援を呼びかけることだった。パウロとはあまり良好な関係ではなかったが、それはそれ、窮地に陥る教会を何とか支援したいと思い、自分の関係する教会に支援を呼びかけたのだ。

その呼びかけにもっとも熱心に応えたのがマケドニアの教会であった。決して裕福な教会ではない。むしろどちらかというと迫害を受ける中で苦労の多い貧しい教会であった。しかしその「貧しさから豊かさがあふれ出て」多くの献げ物が寄せられたのだ。

マケドニアに比べるならば裕福なコリントの教会。しかし献げる姿勢や意識は残念ながら低いものだったようだ。「まぁこのくらい出しておけばいいだろう. . .」という思い. . .。昔も今も、都会の大教会はどうしてもそうなりがちである。

そんな教会にパウロは奮起を促す。上から命令するのではない。分かち合う豊かさに加わることを呼びかけるのだ。それが「私たちの救いのために十字架上で貧しくなられた」イエスの歩みに倣うことだからである。

「分かち合えば満たされる」そう信じて喜ぶところに、ほんとうの心の豊かさがあるのだ。