「 取るに足らない者です 」 

2025年7月20日(日)
歴代誌下6:18-21, マタイ7:1-6

参院選の日曜日である。選挙の期間中、自信たっぷりで自説を語り、対抗する人々を一方的に批判する声に辟易とした。それが選挙というものなのだろうが、あまりにも「自分は正しい!相手は間違っている!」という態度が強過ぎると感じたのだ。

聖書が私たちに示している人間のふさわしい態度・振る舞いはそういうものではない。正しいのは神さまだけ、人間は過ちの多い存在である。そんな中で何とか神の前に正しく生きようと願う. . .そんな信仰に立つならば、自ずとあのような暴力的な言葉は口にのぼらないはずだ。

聖書が示すふさわしい態度、それは「私はこれだけのことを知ってる、やってきた、スゴいでしょ?」というものではない。たとえ人から称賛されるようなことがあっても「私など取るに足りない者です」とへりくだる。そんな姿だ。

旧約のソロモンの姿は、そんな態度の見本である。ソロモンがユダヤに残した歴史的な功績、それは神殿の建設であった。父・ダビデが念願しつつも果たせなかった思いを引き継ぎ、ついに神殿の完成にこぎつけたソロモン。その喜びと興奮の絶頂の中で彼はこんな言葉を口にした。

「はたして神は人の作ったものの中に住まわれるでしょうか。私の建てた神殿など、なおふさわしくありません」。「どうです?スゴいでしょ?神さまここにお住まい下さい」とは言わない。人は神を超えることはできない、「私など取るに足りない者です」. . .ソロモンはそのように語るのである。

新約の箇所でイエスが批判されるのは、ソロモンとは正反対の「自分の正しさ・誇らしさ」に凝り固まった人の姿である。「人を裁くな。 ・・・ 兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気付かないのか」。自分のことを棚に上げて人を批判する. . .私たちの身の回りに溢れかえる愚かな人の姿である。

もちろん建設的な批判は大切だ。イエスもしばしばそのように人を批判された。しかし、人に対して語る時、「その自分は神ではない、自分も愚かな人間のひとりだ」と意識していられるかどうかが大切なのだ。

「とほほ」の意識が大切だと思う。「とほほ」とは従犯意識のことである。正義の高みから人を裁くのではなく、人を批判しながら返す刀で自分も切る. . .そうすることで厳しい言葉も少し柔らかく人に届くように思う。ここでも大切なのは、「私など取るに足りない者です」とへりくだる心なのだと思う。

最後にひとつ。「私は取るに足りない者です」というのが大切なのはその通りである。しかしこの言葉を、私たちはしばしば逃げ口上として用いてしまってはいないだろうか。大切な働きを担おうとせずに、「私など取るに足りない者です」と、自分の意気地なさを取り繕う言い訳に使ってはいないだろうか。それは決して「ふさわしい姿」とは言えない。

「あなたがたは主の御心であれば、あのことやこのことををしよう、と言うべきです」(ヤコブ4:15)そのような言葉を、私たちの生きる道しるべとしたい。