2025年7月27日(日)
エレミヤ7:1-7, マタイ7:21-24
選挙ではハッキリと物を言い、大きな声で断言する候補に票が集まる。しかし大切なのはその人が「何を言ったか」ではなく、「何をするか」である。
このことは私たちの信仰生活の課題でもある。人に(神に)向かって、美しい整った立派な言葉を語るのが大切なのではなく、その言葉を指針としてしっかり言葉通りに生きているか。それが何よりも大切なのだ。聖書の示す神さまは、その人の表面的な振る舞いを見て判断される方ではなく、その人の心の奥底を見られる方であるからだ。
エレミヤはバビロン捕囚直前の南王国・ユダにおいて、堕落した姿で礼拝に臨む人々を批判した。その言葉が今日の箇所だ。エレミヤの時代、エルサレムにはソロモンの建てた立派で荘厳な神殿がそびえ立っており、人々の誇りであった。
エレミヤの活動した時代より少し前に、ヨシア王による宗教改革が行われた。各地方にあった神殿ではカナンの土着の宗教(偶像崇拝)が混ざり込んでいた(バアル神・アシュラ像)。ヨシア王はこれを取り除き焼き捨てる。そして偶像崇拝に染まった地方の神殿を撤廃し、エルサレムの神殿に一本化した。こうしてヤハウェのみを礼拝する改革を行なった(申命記改革)。
この改革の結果、人々の信仰におけるエルサレム神殿の重要性は高まった。一見よいことに思えるが、弊害が生じた。人々は神殿があたかも神のように振る舞い始め、「神殿の神格化」が起こった。神殿が偶像崇拝の対象のようになってしまったのだ。
「主の神殿(×3)という空しい言葉により頼むな」とエレミヤは語る。うやうやしく神殿を讃えれば信仰深いという訳ではない!ということだ。大切なことはご立派な言葉を語ることではなく、お互いの間で正義を行なうことだ、と続く。
では正義とは何か?「寄留の外国人・孤児・寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従わないこと」。弱い立場の人を大切にしなさいということだ。移民・外国人排斥が世界的な兆候となっている現実の中、この言葉をしっかりと受けとめたい。
イエスも「わたしに向かって『主よ主よ』と言うものが天国に入るのではない。天の父の御心を行なう者が入るのだ」と言われる。そればかりでなく、表面的にはあまり褒められないような振る舞いの人でも、その行ないによって「よし」とされる. . .そんな譬え話も語られた(マタイ21章:「二人の息子の譬え」)。何を語るか、ではなく、どう生きるかが大切だと示されたのだ。私たちの信仰生活の道しるべとしたい。
最後にひとつ。「何を語るかより、どう生きるかが大切」それは言うまでもない。しかし、一方では語る言葉に気をつける者でもありたい。言葉は思いを伝えるツールであるが、人を傷つけ人と人とを分断する作用も持つ。どんな言葉を語るかによって、人と人の向き合い方は違ってくる。「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4章)、それも私たちの大切な生きる道だ。