2025年8月17日(日)
ヨナ3:1-5, 使徒言行録9:26-31
映画『教皇選挙』を見ていて、ある候補が有利な得票を得ると過去のスキャンダルが暴露され、選考から漏れていくという場面が続いた。見ながら、「過去のことを引き合いに出されたら、誰も選べなくなるのでは?」と思った。
今日の二つの箇所は、いずれも過去に過ちを犯した、「脛に傷持つ者」の物語である。
旧約はヨナ書。預言書の中でも一風変わった、物語仕立ての預言書である。ある日ヨナは神さまから「ニネベ(チグリス川沿いの大都市)に行って、『この街は罪故に滅びる』と語りなさい」という命令を受ける。しかしヨナは従わず、逃避行を始める。船の中で逃避行の理由がバレて、海の中に放り込まれるが、魚に呑まれその腹の中で何とか生き延びる。そしてそこで悔い改め、陸に吐き出された後、心を入れ替えてニネベの街に預言を語りに行く. . .。
物語はこの後も続き、その顛末にも重要なメッセージがあるのだが、今日は一度は神の命に背いたヨナを、それでも神は預言者として用いられたという点に注目したい。大切な責任ある仕事から逃げてしまった経験は、誰にでもあるだろう。しかしそのことで「即失格!」となるわけではない。神は「脛に傷持つ者」を、それでもご用のために用いられる。
新約は初代教会最大の伝道者・パウロの物語。彼は以前は教会の人々を迫害するファリサイ派の律法学者だった。使徒のひとり・ステファノの殺害に関与していたことも記されている。しかしダマスコ途上で幻のイエスと出会い、心が180度入れ替わる回心を経験した(「目からうろこ」)。回心したパウロはイエス・キリストを伝える働きを志し、使徒たちの活動に加わっていった. . .今日の箇所はその初動の場面である。
仲間に加わろうとしたパウロを「皆は弟子だと信じないで恐れた」と記されている。しかしバルナバの釈明によって信頼を得て、活動に加わることができた、と続くのだが、事はそんなに簡単ではなかったと想像する。ついこの前まで、仲間を殺そうとしていた人物である。そんなパウロが宣教の同士となるまでに、多くの葛藤や紛糾があったのではないだろうか。「あのならず者が. . .なぜ?どうして!?」と. . .。
しかしそのような人を用いて、神の宣教の物語は紡がれていくのである。何の罪も犯さない、過ちを一度も犯したことのない人だけがその業を担うわけではないのだ。
この夏、私は半世紀ぶりに自分自身の過ちと向き合い懺悔する時を与えられた。高校時代に若気の至りで暴行事件を犯し停学処分を受けた。その被害を負わせた同級生と、ひょんなことから再開を果たすことができたのだ。彼にとっては「あのならず者が!」という記憶が残る再会いだったと思う。しかし50年の時を経て大人になった彼は、穏やかに言葉を交わしてくれた。私の中で半世紀の間沈んでいた鉛のような思いが、ほんの少し溶かされたような気がした。
「人はみな罪人」- それが聖書の冷徹な人間理解である。しかしそれは絶望的な滅びの宣告ではない。悔い改めれば赦される、そして用いられる. . .そんな神の声を聞こう。