「 語らすにはいられない言葉 」 

2025年8月24日(日)
エレミヤ20:7-9, 使徒言行録20:32-35

戦後80年、今年は新聞でも戦争と平和に関する特集が多かった。その中に、戦時中、戦争に向かう歩みを批判する川柳の特集があった。自由に物が言えない時代の中で、川柳という変化球を用いて戦争状況や軍部を批判した人々がいた。それはその時代における「語らすにはいられない言葉」だったことだろう。

今日の箇所は旧新約とも語らずにはいられない言葉を語った人たちの物語。旧約は預言者エレミヤ。バビロン捕囚前後の南王国ユダにおいて、周囲でニセ預言者が耳障りの良い言葉を語る中で、国の衰退・滅亡を語った預言者だ。

今日の箇所はそんなエレミヤが、「嘆きの言葉」を語る自分の宿命を呪う箇所だ。「主よ、あなたに惑わされました(7節) 私は一日中そしりを受ける(8節) 私は疲れ果てた(9節). . .これらの言葉から、彼は決して喜んで語っていたわけではないことが分かる。しかし「語るまいと思っても、主の言葉は私の中で火のように燃え上がる」(9節)というのである。

エレミヤにとってそれらの預言の言葉は、個人的にはできれば口にしたくない言葉だった。しかし預言者としては「語らずにはいられない言葉」だった。人々の受けを狙うのではなく、神の眼差しに応えようとする志がそこにある。

新約は使徒言行録に記されたパウロの言葉。彼が建て長年交流を続けたエフェソの教会の人々に別れを告げ、エルサレムに向かう、その局面で語られた言葉だ。

エルサレムへの旅、それはパウロにとって決して栄光の凱旋ではなかった。むしろ苦難・試練の旅となることが予測された(実際、パウロはエルサレムにおいて処刑され生涯を終えている)。今日の箇所は、そんな「今生の別れ」の場面での、パウロのラストメッセージである。

そのような時、人はしばしば自分にとって最も大切な言葉、伝道者パウロにとっては信仰の真髄を表す言葉を語ろうとするものだ。パウロにとってのそれは「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉だった。律法学者として自分の正しさ・救いを何よりも大切にしていたパウロが回心したのは、隣人に愛を与え続け、その救いのために自分の命まで差し出したイエス・キリストの生きる姿であった。この言葉はそんなイエスの姿を象徴している。

この言葉は福音書やパウロ書簡には見当たらない、この箇所にしか出てこない言葉である。しかし使徒言行録の著者・ルカは、パウロと共に伝道の旅を続ける中で、何度もパウロからこの言葉を聞いたに違いない。そんなコア・メッセージを、ラスト・メッセージとしてここに残したのだろう。

今日は異なる状況の中で「語らずにはいられない言葉」を語った姿に学んだ。エレミヤはネガティブな形で、そしてパウロはポジティブな形で。方向性は別々だが、それはいずれもその時・その状況の中で、語らざるを得ない言葉であり、そこには主の真実があったと信じたい。私たちはそんな言葉を持っているだろうか?