2025年9月21日(日) 恵老礼拝
マタイ6:5-13
恵老礼拝ではいつも旧讃美歌を歌っているが、今日歌った393「神のひかりは」は、今年甲子園の高校野球で歌われたものだ。静岡代表・聖隷クリストファー高校の校歌であり、一回戦に勝利したことによって公式に歌われた。甲子園で讃美歌が公式に歌われたのは史上初のことではないか。
さて、毎年の恵老礼拝では歳を重ねることへのメッセージを語っている。「いつまでも若いですね!」と言われてうれしくない人はいないだろう。溌溂とした日々を過ごせることは「よいこと」だ…私たちは自然にそう思う。しかしそこには気をつけなければならない落とし穴があると思うのだ。
それは「若いことがいいことで、年老いるのはダメなこと」という価値観に同意署名してしまうことだ。歳を取るといろんな能力が衰えていく。そのことを「いやだな」と思うのは仕方のないことだが、これを突き詰めると「優性思考」に行き着く。強いのがよいこと/弱いのは悪いこと…そのような優性思考により、歴史上どれほど多くの過ちを犯してきたことだろうか。
ひとりでは何もできない赤ちゃんを見て「ダメなヤツだ」とは誰も思わない。当たり前のこととして世話をし成長を支える。歳を重ねていろんなことができなくなるのは、赤ちゃん時代から得てきた能力を、ひとつひとつ神さまにお返しする道のりではないか…そう考えて現実を受け入れることが肝要だ。
「自分を愛するように隣人を愛しなさい」。イエス・キリストの最も大切な教えである。私たちはこの教えを「自分が他人にする」と能動的に受けとめてきた。しかし人の支援を喜んで受けるのも、隣人を愛するという営みに含まれるのではないか。「お世話され上手」(@釈徹宗)を目指したい。
今日の聖書は「祈り」についてのイエスの教えだ。「偽善者のように人の目を気にしてこれ見よがしに祈るな」とイエスは教える。政治家が集団で参拝する姿は、人目を気にする祈りに他ならない。本当に冥福を祈りたければ、早朝に人知れずひっそり祈ればいい。
「異邦人のように祈るな」とも言われるが、くどくど祈るのは異邦人に限らない。「偶像崇拝の祈り」、即ち自分の願望が果たされることを中心に祈ることをイエスは戒めておられるのであろう。
「父は願う前から必要なものはご存じだ」と言われる。「何だ、それだったら祈る必要はないじゃないか」と思ってしまうが、いやいやそうじゃないよ、と教えられたのが「主の祈り」だ。それは祈りの基本、最初の祈りであり、最後の祈りとなるものだ。
ホイヴェルス神父の『最上のわざ』という詩に、「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ」という言葉がある。「 手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。 愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために」。
祈り、それは私たちが歳を重ねても、最後まで残る「自分にできること」だ。あなたにとって「最後に残る祈り」とはどんな祈りだろう?それを考え続けることが、老いることの成熟につながるのではないだろうか。