「ゆるすことによってゆるされ」 

2025年9月28日(日)
創世記45:1-8, マタイ18:21-35

人間は過ちを犯す存在である。そんな人間同士が自分の「正義」に凝り固まっていたのでは、いつまでも争いは無くならない。与えられた言葉の力・想像力を用いて、赦しと和解への道へ進むこと、それが聖書から示されるメッセージである。

旧約はヨセフ物語。兄たちに憎まれエジプトに売られたヨセフ。しかし手柄を立てて出世し、エジプト王国の食料担当高官となる。そこへ、イスラエルから飢饉で食料を求めに来た兄たちが訪れ。再会する。ヨセフは気付くが兄たちは目の前の高官がヨセフとは気付かない。最初ヨセフは兄たちに仕返しを試みるが、最終的には名乗り出て、兄たちを和解する. . .といった物語だ。

和解のキーワードとなる言葉がある。「私をエジプトに遣わしたのは、あなたがたではなく神です。神が我々を救うために、私をここに導いて下さったのです」(創45:8)。ヨセフの生意気な態度、それに対する兄たちの反目や憎しみ. . .神はそういった人間の悪意をも用いてでも、最終的には救いをもたらされる. . .そんな神の摂理に委ねる信仰から、赦しと和解が導き出されるのである。

新約はペトロの質問に答える形でのイエスの教えだ。「兄弟が罪を犯した場合、何回赦せばいいですか?7回ですか?」と問うペトロに対し、イエスは「7の70倍赦しなさい」と答えられた。

「7」とは完全数を表す。ペトロも赦しの大切さは分かっていた。それに対するイエスの答えは、「完全に完全を重ねて赦しなさい」、つまり際限なく赦しなさい、ということである。ペトロの訝しがる顔が思い浮かぶ。私たちも「そんなに赦したら、悪をのさばらせるのではないか」という思いを抱くだろう。それに対してイエスはひとつの譬えを語られた。

王さまに対して負っていた1万タラントン(6億円)の借金を、全額赦してもらった家来。しかし自分が友人に貸していた100デナリ(100万円)を赦そうとしなかった。家来は王に呼び出され懲らしめを受けた. . .。この譬えを通して、イエスは和解と赦しにおける大切な心持ちについて教えられる。

ペトロは「私は何度赦せばいいか?」と尋ねた。そこには、自分が赦す側、すなわち裁判官の立場にいるという意識がある。それに対するイエスの答えは、「そもそもあなた自身が人を裁けるような立場にいるのか?」と問いかけるものだ。

自分が神さまから許されている、まずそのことを覚えなさいとイエスは言われる。それを忘れて人に裁きを下すのは、この家来と同じということだ。そんな姿の歪さに気付いて、際限なく赦しなさいとイエスは教えられる。

「そんなことをすれば悪がのさばるのではないか」と私たちは思う。しかしイエスは決して「悪を見過ごしにしろ」と言われた訳ではない。イエスもしばしば「悪(=ファリサイ派たちの傲慢)」に対し、これを批判し戒めを語られた。悪に対し、裁きを下しこれをこれを罰することが必要な時もある。しかしその時でも、自分が裁判官(神)になってはいけない、畏れをもってその判断を下せる者となりなさい…イエスはそのように教えられるのである。

フランチェスコの平和の祈りでは「赦すことによって赦され…」、主の祈りでは「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」と祈られる。しかしそれは、「私が赦すから、神は私を赦して下さる」のではない。それでは順序が逆だ。神によって赦されている. . .そのことを知っている者だから、自分も人を赦すことができるのである。