「そこがロドスだ、そこで跳べ!」 

2025年10月5日(日)
マルコ16:1-7

戦後75年に渡り、キャンプ活動を通して青少年教育を続けてきた、神戸YMCAの余島キャンプ場。その活動が終了することとなった。YMCAとしては継続を願ったが、地主が売却をしたため立ち退きを余儀なくされたのだ。大切な場所で積み重ねてきた活動を終えざるを得ない無念さを思う。

人間は土地への愛着・執着を抱く存在である。地中海を股にかけて活躍した海洋民族・古代フェニキア人も、祭の際には決まった土地に戻ってきた。一方ユダヤ人は神に祈る場所を奪われる経験(バビロン捕囚)の中で、特定の土地にこだわらず、いつでもどこでも神に祈れる信仰を目指した(モバイルできる神さま)。

ユダヤ教・キリスト教は唯一の神を信じる「一神教」と分類される。しかしそれは最初から備わっていたものではなく、大切な土地から剥がされるという苦渋の経験の中で培われた、宗教的成熟と言えるのかも知れない。

今日の聖書はイエスの十字架刑の後、遺体の納められた墓の周辺での出来事である。女たちがイエスのなきがらに香油を塗りに行った。葬儀の準備である。しかし彼女たちが見たのはイエスの遺体ではなく、空の墓と白い衣を着た若者であった。若者は言った。「あの方はよみがえってここにはおられない。いますぐガリラヤに行きなさい。そこでお会いできるであろう」。

ガリラヤとはどこか?「パレスチナ北部、ガリラヤ湖周辺地域」というのが正解である。それはユダヤの都・エルサレムから見れば辺境の地であり、エリートたちからは「取るに足らない場所」と見下されていた地域だ。しかしそこはイエスの故郷であり、多くの民衆と共に生きる中で癒しや救いの出来事をもたらされた場所でもある。

そのガリラヤ、即ち「パレスチナ北部、ガリラヤ湖周辺地域」という場所に行けば、よみがえりのイエスに会える. . .若者はそう言おうとしたのだろうか。私は少し違うことを考える。

ガリラヤとは特定の土地のことではなく、イエスが大切にされた出会いや交わりが残されている場所のことではないか、と。イエスは強い者・裕福な者とではなく、弱い者・貧しい者との関わりを大切に歩まれた。エリートたちから見下され蔑まれ、それでも懸命に日々を生きている人々. . .そんな人たちを大切にして生きられたのだ。

「ガリラヤ」とはイエスが大切にされたそんな出会い交わりが、今も生きている場所のことではないか。「自分を愛するように隣人を愛する」その教えが受け継がれている場所ならば、そこにイエスのいのちはある、どこだって「そこがガリラヤだ」と思うのだ。

イソップの寓話に「オレはロドス島の大会で大記録を出したんだ!」とホラを吹く男の話がある。吹聴するその男にある人が言った。「行くまでもないだろう。ここがロドスだ、ここで跳べ!」。

大切な土地(余島)を離れざるを得ない人に、私は同じ言葉を贈りたい。特定の土地を離れても、そこで与えられた出会いや交わり、培われた情熱が残る限り、その関わり・いのちは終わらない。「そこが余島だ、そこで跳べ!」