2025年10月19日(日)
イザヤ33:17-22, マタイ13:44-50
「天国」「神の国」と聞くと、私たちは死後の世界をイメージする。しかし聖書が示す「神の国」とはこちら岸、すなわち現実世界に「やって来るもの」である。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(イエスの宣教の第一声)。
旧約・イザヤ書33章は、そんな「あちらから訪れる神の国」の託宣である。そこに示されるのは「終わりの日の裁き」であるが、それは恐れや恐怖ではなく、祝祭として語られる。なぜ終わりの裁きが祝祭となるのか?それは傲慢な者が退けられ、神に従う者が正しく裁かれる日だからだ。
このような終わりの日への期待が、ユダヤ人に苦難の歴史(バビロン捕囚、hか)を耐え忍ぶ信仰の力を与えた。「今は苦しく辛い日々でも、神は必ず世を正しく裁かれる。だから諦めずに、誠実に生きよう」と。
新約の箇所は、イエスのたとえ話。全財産を用いてでも手に入れたいものを得ようとする人々の物語だ。探すものは畑の中の宝や高価な真珠であるが、それらは天の国を表すメタファーである。「天の国とは、人が全財産を用いてでも手に入れたいと願っているものだ」. . .最初の二つの譬えはそんなお話である。
それに続く三つ目の譬えは少し様相が異なる。漁師が網を引き揚げると、良い魚は器に、悪い魚は投げ捨てる。そして「世の終わりには正しい者と悪い者を選り分け、悪い者は燃える炉の中に投げ込まれる」と。これは「最後の審判」である。神の国が到来する前に、メシアが現れて世を裁かれるというのである。
この三つ目の話は、私たちの心を生き生きとした喜びに導くものではない。むしろどちらかというと恐怖を与える。聖書の他の箇所にも記されるこれらの終末論は、私たちの心に暗い影を落とす。「間もなく世の終わりが来る。その時に滅びたくなかったら、この信仰を持ちなさい」と脅してきたのが、中世カトリック教会や現代のカルト宗教の手口である。
果たして天国とは、そのような恐ろしい経験を経なければたどり着けないものなのか。そんなものに私たちは全財産を賭けようと思うだろうか。
バプテスマのヨハネは、イエスに「来るべき方はあなたですか?」と問うた(マタイ11章)。「来るべき方」 ― それは終わりの日に現れ「最後の審判」を行なうメシアのこと. . .それがヨハネのイメージしていたことだろう。
イエスは答えられた。「目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人が癒され、死んだようになっていた者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」 世の終わりの裁きなどという大きなことではなく、あなたの周りで起こっている、「いと小さき人々の救いや喜びを見なさい。そこに天の国はあるのだ」と。
天国はどこにあるのだろう?死後のことはわからない。神さまにお任せしよう。しかしこの世のことならば、天国はすでに来ているのだ。イエスと共に。イエスの教え・言葉に導かれて、みんなが今日を生きている、平和のうちに人生を歩んでいる、 互いに愛を抱き世界を分かち合っているところに。「神の国は、あなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)
「想像してごらん、すべての人が世界を分かち合い、平和のうちに今日を生きてる、と。」(『イマジン』 ジョン・レノン) そこに天国はある。