2025年10月26日(日)
創世記2:4-25, マルコ10:2-12
教会で結婚式を希望する人に、事前にレクチャーの時を持つことにしている。結婚式の内容、結婚に関するキリスト教の考え方等々。そこで必ず申し上げることは、「結婚する相手は“他者”である」ということである。
「そんなの当たり前ではないか」と思われるかも知れないが、案外そうではない。結婚する相手に求めるもの、それは結構自分の延長線のものが多いのではないか。波長が合う、考え方や趣味・好きなものが一緒、気が合う、わがままを聞いてくれる…そこでは相手が自分に合わせることが前提となっているのだ。
同じ思いを求めるのが「ダメ」なのではない。しかしあまり自分の理想を強く求め過ぎるのもよろしくないと思う。人はひとりひとり、みな「違う」からだ。結婚とは自分に仕える召使いを雇うことではない。神が与えられたそれぞれの人格を尊重し合いながら、共に成長するために結婚するのである。
創世記のアダム創造物語では、「アダムが独りでいるのはよくない。ふさわしい『助ける者』を作ろう」ということでエバが作られた。「助ける者」とは、助手のような存在ではない。ヘブライ語の「エーゼル」には神の助けを表す意味が含まれている。
人間とは独りではうまく生きられない不完全な存在である。その足りない部分を最も近いところで支え補うパートナー、それが妻であり夫であるということだ。
創世記にもう一つ大切なことが記される。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(2:24)。父母を離れた独立した人格として、ということだ。父母や○○家の付属物ではなく、保護の必要な存在でもなくて、ひとつの人格を持った人間同士が共に生きるという営み。「一体となる他者」、それが聖書の示す結婚の姿なのだ。
新約は離縁をめぐるイエスと律法学者との論争。「離縁状を書いて妻を離縁することは律法に適っているか?」という“ひっかけ問題”に対して、イエスは「神が合わせられたものを人は離してはならない」と答えられた。これは「離縁はしてはいけない」という答えなのか?
モーセの律法には「妻に恥ずべきことを見出した時には離縁状を書いて離婚ができる」とある(申命記24:1)。「恥ずべき事」とは何か?イエスの時代には「料理でナベを焦がした」といったことも含まれていたという。そのような夫側の身勝手な離縁に対してイエスは戒めとしてこのように語られたのだろう。
しかし結婚という現実の中で、神によって与えられたその人の人格が著しく損なわれるような状況(DV、言葉の暴力、家族制度内の強制など)が生じてしまった場合、イエスはやむを得ない決断として受け入れて下さるのではないか。あのヨハネ8章に記された「姦通の女」エピソードのように、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい、今後はもう間違えないように」と。
それぞれの違いを認め合いながら、共に生きる…それが夫婦の原点である。そしてそれは結婚する・しないに関わらず、すべての人間に求められる「共に生きる」ための作法なのだ。互いの違いを乗り越えられるために神から人間に与えられた賜物、即ち「愛とユーモア」を心に抱きながら。
