2025年11月9日(日)
創世記15:1-6, マルコ12:18-27
人類は太古から死を意識して生きてきた。死を悼み、祈りをささげ、花を手向けて遺体を土に埋める. . .葬儀を行なう生物は人類だけだ。そんな歩みの中から宗教も生まれてきたのではないか。キリスト教に限らず、すべての宗教にとって、死をどう受けとめるかということは大切なテーマである。
私は小学校高学年の時に強く死を意識するようになり、死んだらどうなるかを考えると不安で夜眠れない日々を過ごした。中学生になってもっと確かなことに気付いた。「オレはいつかは死ぬ。しかしそれより確実なのは、いま生きてるということや!」。それ以来、「今この時を充実して過ごすことを大切にしよう」と思えるようになった。
今日の新約は、死後のことについてイエスに質問をした人のエピソードだ。サドカイ派のひとりがイエスに尋ねた。「ある人が妻を残して死んだので、その兄弟が跡を取った。その兄弟も死に、次々に7人の兄弟が妻を残して死んだ。復活の時、この女は誰の妻になるのか?」
サドカイ派は復活を否定していた。この問いは死後の世界への関心というよりは、復活を否定する意図があってのことであろう。「なんでそんなバカげたことを信じているのか」と。
イエスは「復活の時には娶ることも嫁ぐこともない、天使のようになるのだ」と語り、モーセに神が語りかけた「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉が死者の復活を証明している、と答えられた。なんとも意味不明の解説である。
しかし続けて語られた言葉は大切なメッセージを含んだ言葉だと思う。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。我々が死んだ後に神はどんな世界を用意してくれているのか. . .そんなことに備えるために私たちは神を信じるのではない。私たちが神を信じる信仰を抱くのは、死後に備えるためではなく、今を生きるためなのだ!. . .そう言われるのである。
そんな「今を生きる信仰」を表すモデルがイスラエルの父祖・アブラハムである。裕福な暮らしをしていた彼は、ある日突然示された「私の示す地に向けて旅立ちなさい」という神の命に従った。「私(神)はあなたを祝福する」そんな雲をつかむような言葉だけが根拠だった。
今日の箇所では「お前の子孫はあの空の星のようになる」と神は語られた。アブラハムはその約束を信じた。「主はそれを彼の“義”と認められた」と記される。
アブラハムは約束された未来を先取りして確信したから旅立ったのか?そうではなく、神の約束に従う「今、この時」に意味を見出したから旅立ったのではないだろうか。「行き先を知らずに旅立つ」(ヘブライ11:8)それがアブラハムの「今を生きる信仰」である。
では私たちは死んだ後、どうなるか?それは私たちには分からない。神さまにおまかせするしかない。それよりは「今をしっかりと生きること」を大切にしよう。立派な生き方でなくても、カッコ悪くてもいい。一度限りの人生、今を大切に生きて、感謝と充実のうちに「その日」を迎えよう。
