2025年11月16日(日)
出エジプト6:2-9, ヘブライ11:23-29
日本の神社の神々には、おのおのその得意分野がある。縁結び・商売繁盛・学業成就・厄除け. . .それぞれの「ご利益」が謳われ、それを求めて参拝者が集まる。
これに対して聖書の示す神さまにはそのような専門分野は基本的にない。聖書の神様は天地の造り主であり、命をつくり養われる神である。また人間の願望に応える神さまではなく、神の願いを人間が尋ね求めることこそ信仰とされる。人間の欲望に基づいた「ご利益信仰」は「偶像崇拝」として否定される。
しかし「それでも敢えて、聖書の神の特色は何か」と聞かれたら、「人間の痛み苦しみを顧みられる神」と答えようと思う。聖書には嘆き苦しむイスラエルの民を神が顧み、救われた物語がいくつも記される。その一つがモーセによる奴隷からの解放・出エジプトの物語である。
その昔イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦役を負わされていた。その苦しみの中から民が祈ると、神はモーセを遣わしてこれを救われた。過越しの出来事から「海の奇跡」に至るクライマックス、それはイスラエルの民(ユダヤ人)の信仰の原点である。
その救いの物語の出発点ともいえるのが今日の箇所である。「私(神)はまた、奴隷となっているイスラエルの人々のうめきを聞いた」(出エ6:2)と記される。民の苦しみの中からうめく声に耳を傾けられる神. . .。そこから出エジプトの壮大な物語は始まった。
新約・ヘブライ書では、遣わされたモーセに関する記述が示される。王女の子として育ちながら、奴隷の苦しみを味わう同胞たちを思い、「はかない楽しみより、神の民として虐待されることを選んだ」とある。それこそまさに、うめきを聞かれる神に従う信仰の歩みである。そしてそのモーセの姿を、十字架にかけられたイエス・キリストと重ね合わせるのである。
このあとヘブライ書は神のなされた救いの業を列挙する。「私たちの信じる神は、このようにして民のうめきに対し具体的・奇跡的な救いを届けて下さった」と。
私のようなへそ曲がりの人間は、ついこんな事を考えてしまう。「確かにエジプトの苦しみに対して神は奇跡的に救われたかも知れない。しかしいつもいつも救ってくれたワケではないだろう」と。例えばアウシュビッツ。600万人もの虐殺の時に神はどこにおられたのか。現在のガザ地区への暴虐に対して、神は何をしておられるのか、と。
この問いに対して、明確な答えを見つけるのは難しい。しかしそれでも聖書から示される一つのメッセージがあると思う。「神は苦しむ民のなげきを、決して見過ごしにされない。きっと聞いていて下さる」ということだ。
うめきを聞いて、それでいったい具体的に何をしてくれるのか. . .それは分からない。瞬間的・短期的に見れば「何もしてくれない」と思えるかも知れない。しかし少なくとも、“苦しみ・うめきを与える側”には決して立たれない、苦しみ・うめきの声を“上げさせられる人の側”に立っていて下さる…聖書が示し、イエス・キリストが従った神の姿はそのようなものだと思う。
そのような神を信じる人々の中から、その現実を何とか作り変えようとする人が現れ、導かれ、養われてゆく。そのような形で「神の御心に相応しい世界」が実現へと向かってゆくのである。
