2025年12月7日(日)
エレミヤ36:1-8, Ⅱテモテ4:1-5
「真実を語り続ける」― それはとても大切なことだ。人の耳に心地よく届く上辺だけの美辞麗句を語るのではなく、耳に痛くても、時に拒絶されようとも自分に示された真実を語ること。イエス・キリストはまさにそんな人生を歩まれた方だ。相手が民の指導者・律法学者であろうと、時の権力者、ピラトやヘロデであろうと、忖度することなく言うべきことを言う. . .そんな姿が聖書には記される。
旧約の預言者も真実を語り続けた人だ。バビロン捕囚の危機が迫る中で、エレミヤは敢えてエルサレムの滅びを語った。ユダの人々の罪がこの事態を招き入れたのだ、と。一方ハナンヤは「エルサレムは守られる」とウケのよい言葉を語った(エレ28章)。人々はどちらの声を聞きたがるだろうか?
例えてみれば、甘いものを食べ過ぎて病気になった人に、「このままだと身を滅ぼす。食い改めよ」と厳しく迫るエレミヤに対し、「大丈夫、そのうち良くなるよ。どんどん好きなもの食べなさい」と甘やかすハナンヤ. . .。人情としてはハナンヤの方がありがたい。しかしそれは真実を見ようとしないまやかしの対応でしかない。
今日の箇所でもエレミヤはユダの人々に対する厳しい言葉を巻物に書き記す。受け取った高官たちがユダの王に読んで聞かせると、腹を立てた王はそれを暖炉にくべて燃やしてしまった。
神はエレミヤに厳しい預言させて、人々をがっかりさせたいのだろうか?そうではない。「ユダの家は、わたしの災いを聞いて、悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」(36:3) 神がエレミヤに辛い役割を託されたのは、ユダの人々を悔い改めに導き罪と咎を赦すためであった。
「折が良くても悪くても、語るべきことを語りなさい」、パウロは弟子の伝道者テモテにそう命じる。「人々が聞きたがる好き勝手な作り話ではなく、健全な教え・真実を語れ」と。これはテモテひとりに向けられたものではなく、すべての伝道者・信徒に向けられた言葉だと思う。
ただそこで、ひとつ気をつけたいことがある。そのような形で真実を語ろうとする人の、その態度・振る舞いについてである。「私が語るのは真実だ」と思っている人間は、得てして一方的・高圧的になってしまいがちだ。それどころか「私は正しい!」という意識に凝り固まった人ほど、他人を見下し罵倒し、残酷になってしまう. . . そのことに気をつけたいと思うのだ。
「正しいことを言う時は控えめにする方がいい。相手の心を傷つけやすいと気付いている方がいい」(吉野弘『祝婚歌』)そんな思いを抱きながら、真実を語り続けるのは難しいことだ。どうすれば適切にふるまえるのだろうか?
「愛に根差して真理を語り、キリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:15)とパウロは記す。愛に根差すことが大事、と心にとめよう。イエス・キリストはまさに愛に根差して真実を語り続けた人だった。そのイエスに学びながら、私たちもまた「真実を語る作法」を身につけよう。
