2026年1月11日(日)
出エジプト14:15-22、マルコ1:9-11(1月11日)
昨年のクリスマス、二人の方が洗礼を受けられた。洗礼式では水を用いる。水にはものを洗い流す作用がある。洗礼には「罪を洗い流し清められる」という意味合いが込められている。
しかし、一たび洗礼を受けたら、あとは真っ新な清い人生が始まるか、というと、多くの人はそうではない。洗礼を受けた後も何度も過ちを繰り返す…それが生身の人間だ。その度に「立ち帰る原点」として洗礼があればいいのだと思う。結婚式での誓約が、その後の結婚生活の中で常に立ち帰る原点であるように…。
ところで、洗礼という儀式には「罪が洗い清められる」というのとは別の意味も込められているのではないか…そんなことを今日の箇所は示してくれる。旧約は出エジプト記。モーセに率いられたイスラエルの民が、エジプト軍に海沿いまで追い詰められた時、海の水が割れて道が出来、そこを通って救われたという「海の奇跡」が語られる箇所だ。ここでの救いのモチーフ、それは海(水)を通って救われる…というものである。それは「試練や苦難を潜り抜けて」という意味が込められている。
私たちひとりひとりの洗礼に、どれほどの試練や苦難があったのかは、人それぞれであろう。相当な決意を抱いて受けた人もいれば、「何となく、自然に…」といった経験もあろう。しかし洗礼を受け始まったそれぞれの信仰生活は、順調で恵まれた歩みばかりではなかったはずだ。「洗礼を受けた…にも関わらずなぜこんな思いを…」そんな経験をした人もいるだろう。しかしその試練や苦難の荒波に飲み込まれ沈み切ってしまうのではなく、「そこを潜り抜けた所にきっと救いがある」と信じることができる…「水を通って救われる」とは、そういう経験を表すのだと思う。
新約はイエスの受洗の場面。マルコ・ルカではその様子が淡々と描かれるが、マタイではバプテスマのヨハネとのやりとりが記される。「私の方があなたから洗礼を受けるべきなのに…」と戸惑うヨハネに、「今は止めないで欲しい」とイエスは言われた。
これから始まるイエスの公生涯…それは楽しい・うれしい旅というよりは、苦難や試練が待ち受けてるに違いない…そんな旅の予感があった。覚悟を持って出発するにあたって、イエスにも「水を通って救われる」という実感を得たい!という願いがあったのではないだろうか。
同じ苦しみの経験を持つ者同士の間に、強い絆が生まれることがある(「同じ釜の飯を食った仲間同士」など)。イエスにとってヨハネから洗礼を受けることは、「同じ水を通って救われた者同士」― そんな絆を、これから共に歩む仲間たちとの間に感じるものであったのかも知れない。
洗礼を受け礼拝に集う者同士の関係は、「同じ教会に通う仲良し」というだけのものではない。山あり谷あり荒波が押し寄せる人生において、「私には“水を通って救われた仲間”がいる」と思えること。それが大きな心の支えとなって共に歩むことができるのだ。
