「主の招く声」 

2026年1月18日(日)
エレミヤ1:4-10, マルコ1:14-20

私たちの人生には、何度か人生の行く末に関わる決断を下す時がある。大抵は自分で考えて決断することが多いが、信仰の世界ではそれをひっくり返して、「神さまによってこの道が示された」と受けとめる感性がある。

ドイツ語で「仕事」を表す「ベルーフ」という単語は、単に賃金取得のための労働ではなく、「召命」「天職」と訳される意味を持つ言葉である。各人が担う仕事は神によって与えられたもの、という受けとめ方である。この労働観が勤勉な労働者を生み、資本主義の発展に寄与した、と19世紀の経済学者、M.ウェーバーは論考した。

「召命」― それはしばしば、自分の望まない方向に、できれば行きたくない道に向かっていくこともある。今日の旧約のエレミヤは、まさにそのような預言者であった。

エレミヤが活動したのは、ユダの国がバビロニアにより滅ぼされようという時代であった。そんな時にエレミヤは「この苦難の中に御心が示されている。悔い改めよ!」と語った。ウケない、むしろ反感を買う預言の言葉。できればやりたくない仕事。エレミヤは「私は若者に過ぎません」といって一度は神の召命を拒もうとした。しかしそれでも神の強い促しを受け、ついには預言者として歩む決意をするのである。

新約はシモン(ペトロ)たち弟子が選ばれる場面。これから過酷な宣教の旅に向かうに際して、イエスは弟子を招かれた。最初の4人は漁師である。「あなたがたを人間を取る漁師にしよう」。招かれると、4人は即座にイエスに従った。本分である漁師の仕事や、家族を捨てて、まっすぐに従った. . .そのようにも読める聖書の箇所である。

はたして彼らはイエスの弟子となる十分な備えができていたのだろうか?むしろ人々から「メシア(救い主)」と称され、未来のヒーローと目されるイエスから、直接声をかけられて、舞い上がってその場の勢いで従った. . .それが真相に近いのではないかと思う。しかしそこに、「この人について行こう。この人に賭けよう」という真摯な思いがあったことは確かであろう。

エレミヤは召命の何たるかを知っていた。だから躊躇した。ペトロたちは知らなかった。だから即座に従うことができた. . .そういうことかも知れない。

両者の姿は、召命に応える者の2種類の姿を表しているようにも思える。「イヤイヤシブシブ系」(エレミヤ)と、「イケイケドンドン系」(ペトロたち)。しかしとにもかくにも彼らは召命に応え、預言者の働き、初代教会の働きを担う者となったのである。

ところでこの「召命」とは、誰か特定の人(牧師、宣教者)にのみ与えられるものなのだろうか。「主の招く声」、それは誰にでも示されているものではないか。しかし私たちはしばしばそれを見逃し、聞き逃してしまう。まず招きに気付くこと. . .そんな心を求めよう。そして招く声に気付いたならば、「イケイケドンドン」でなくてもいい、「イヤイヤシブシブ」で構わない、招きに応える者と大きな立派なことは無理でも、自分に負える小さな事ならば、5回に1回くらいは担える者となろう。