2015年7月26日(日)
列王記上19:9-18、ペトロⅠ3:10-18
7月14日、東京で知人の葬儀があり、その帰りに呼びかけられていた国会前の安保法制反対デモに参加してきた。前橋にいて、今の現状に対して具体的に行動できない・していない自分の現状に忸怩たる思いを抱いていた。小さな声でも挙げてこようと、東京・日比谷を訪れた。
現地に行って驚いた。三千人収容の野外音楽堂には人が入り切らず、その周囲を何万人という人が囲んでいた。いずれも現在の安保法案に反対の思いを抱いて集まった人々だ。特に目立ったのは若者と女性の姿であった。
とかく「無関心・無感動」などと言われることも多い若者たちであるが、なかなかどうしてその思いは熱く、またデモに加わるスタンスは新しかった(ラップ風のシュプレッヒコール等々)。帰り道、デモに行く前とは違う思いを抱いていた。「ひとりで何もできない」と思っていたが、同じ思いを抱いている人がこんなにたくさんいることを知ったからだ。それは驚きであり、喜びであり、希望だった。
今日の聖書の箇所(旧約)は、列王記に記された預言者エリヤの孤軍奮闘の闘いの様子だ。暴君・アハブとその妻イゼベルの悪政を批判し、イスラエルの国に滅びを告げたために逆に恨まれ、命を狙われる羽目になったエリヤ。逃避行の中でエリヤは神に泣き言を漏らす。
「私はあなたに情熱を傾けて仕えてきました。しかしイスラエルの人は皆あなたに背き、私一人だけが残りました。」たった一人で戦っている ― そんな孤独を抱いたエリヤは自分の命が取られることをすら願った。
しかし神は答えられる。「私はイスラエルに7千人を残す。お前と同じ志で戦う仲間たちだ。」人は困難に向かってゆくとき、自分一人で歩まねばならない道を強いられると、孤独のあまりに心が折れそうになる。しかし目に見えなくても、同じ志を抱く仲間がいると信じることで、再びなすべき課題に向かってゆけることがある。「あなたの知らないところで、あなたと共に歩む仲間がいるのだ。」この神の言葉に支えられて、エリヤは再び預言者としての歩みに戻ってゆく。
「義のために苦しむならば幸いです」とペトロは語る。たとえ正しいことのためとはいえ、誰だって苦しみを負うのはいやだ。ペトロだって苦しみを恐れてイエスを裏切ったではないか… しかしそのペトロが言うのである。「心の中でキリストを主とあがめなさい」と。そうすれば、義のための苦しみを引き受けることができる、ということか。
イエス・キリストこそ、義のために苦しまれたその最たる人である。そのキリストが共に歩んで下さる… そう信じることで、人はまた一歩前に進むことができるのだ。
エリヤにとって「共に歩む仲間」は7千人であった。しかしペトロにとってはキリスト一人で十分だった。いやひょっとするとそれはペトロにとって、7千人以上の心強い支えに感じられたのも知れない。なぜなら、心の中でキリストを主とあがめ、そうすることで絶望せずに義を求める人々、義のために苦しみを背負うことを決意する仲間は何千人、何万人、何十万人もいる…そう信じられたに違いないからだ。
義を求める人々が苦しみを負わされる時代、殉教者が称賛される時代は、実は「よい時代」ではない。今私たちが生きているこの時代も、決して良い時代とは言えないだろう。しかし私たちは希望を捨てない。なぜなら私たちには共に歩む仲間がいる ― そう信じているからだ。