「平和の種をまこう」 

2026年2月1日(日)
マルコ4:1-9

1月11‐12日、平和の種まきフェスティバル(NCC教育部呼びかけ)にスタッフとして参加した。私が受け持った分科会は、「これもさんびか」の中から平和をテーマにした歌を紹介・実演し、最後にみんなでひとつの歌を作るというものだった。

他にも様々なワークショップが行なわれ(多文化共生,ジェンダー/セクシュアリティの学び,非暴力コミュニケーション等々)、最後の派遣礼拝では私の分科会で作った歌をみんなで歌った。「分断と対立」が深まっている世界の現実の中で、共生・共感をもとに平和を目指すという、キリスト教が大切にしてきたメッセージを分かち合った。

一方、1月31日には群馬の森で行なわれた朝鮮人犠牲者の追悼式に参加し、「抵抗の詩人・尹東柱」の歌を歌ってきた。この地に建っていた朝鮮人追悼碑に対し、右翼団体から「自虐的だ」とのクレームがつけられ、その策動により2年前、県は追悼碑」を撤去した。しかし撤去後も市民グループの呼びかけにより追悼集会が行なわれている。

尹東柱が逮捕され獄中死をする原因になったのは、生前彼がハングル文字で詩作をしていたことが「治安維持法違反」とされたからであった。自分の民族の文字で表現することを、当時の日本政府は認めなかったのである。

いま選挙で「スパイ防止法」の制定が叫ばれている。もしこの法律が出来れば、言論弾圧により自由に物が言えない時代が来るかもしれない。

牧師が礼拝で政治的発言をすることへの批判は昔からある。確かにいろんな立場の人がいるので、偏りは避けるべきなのかも知れない。しかし事柄によっては、沈黙することが神の前での過ちにつながることもあると思う。

「ナチスに抵抗した牧師」として知られているM.ニーメラーは、時代の中での自分の態度についてこう述べている。「共産主義者が弾圧され、社会主義者、組合、ユダヤ人が次々に弾圧された時、私は黙っていた。最後にナチスは教会を弾圧したので立ち上がって抵抗を始めようとしたが、その時はもう遅かった」。

今日の聖書は「4つの種の譬え」である。3つの種は、鳥に食われたり、石地で焼けたり、茨で遮られたりして実を結ばなかった。4つ目の種だけはよい地に蒔かれて100倍に実った. . .。これを受けて「だから私たちもよい実をつけるよい地となりましょう」と結びたくなる。

しかし少し違う視点でとらえたい。この「種を蒔く人」は、ある意味効率の悪い働きをしている。熟練なら良い地に集中して種をまくべきだ。しかし彼はそうしない。ムダに思える所にも種を蒔き続けるのだ。

種を蒔くという行為は、すぐに成果が期待できない。しかしそこには時を待つ覚悟、そして未来に対する信頼がある。歴史を振り返れば今よりももっと酷い時代もあった。しかしそんな中でも諦めずに、平和の種を蒔き続けた人たちがいたことだろう。私たちも未来を諦めず、平和の種を蒔き続ける者でありたい。