2026年2月15日(日)
ヨナ書1:1-12, マルコ4:35-41
今週からレントが始まる。今日はレント前最後の日曜日、その主日に示された聖書の箇所には、いずれも同じ振る舞いをする人の姿が描かれている。それは「舟の中で眠る人々」である。
旧約はヨナ書。預言書の中では珍しい、物語形式の内容である。ある日ヨナは神の召命を受けニネベ(アッシリアの都)で裁きと滅びの預言をするよう命じられる。しかし聴衆の反発を恐れたヨナはこれを拒否し、神から逃れて舟に乗る。舟は突然の嵐に見舞われるが、ヨナはその船底で熟睡してしまう。
これは安らかな眠りではない。むしろ「どうにでもなれ!」というような、投げやりな思いの中での「ふて寝」のようなものだ。しかし神はそれでもヨナを見捨てず、放り込まれた海の中で魚の腹の中で命をながらえさせ、悔い改めへと導き預言者として立ててゆく…と続くのだが、それはまた別の話。
新約にも同じように嵐の舟の中で熟睡するひとりの人の姿が描かれる。その人とはイエス・キリストである。弟子たちと共に宣教を始めたイエス。ある日弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。イエスは一つの所に留まらない。多くの人と新たな出会いを求めて旅を続けられる。
イエスに促されて舟を出す弟子たち。その時激しい嵐が舟を襲い、沈没しそうになる。この嵐にもまれる舟はこれから始まるイエスの過酷な宣教の旅を象徴している。権力に近い人々の恨みを買い、さまざまな試練や苦難が押し寄せる…その最終地点がエルサレム、十字架の死である。
もしイエスがガリラヤに留まり、支援者に囲まれて過ごしたならば十字架につけられることはなかっただろう。しかしイエスは苦しむ人々を救うために旅を続ける。その決意を表すのが「向こう岸へ渡ろう」という言葉だ。
弟子たちは舟を漕ぎ出す。激しい嵐が彼らを襲うが、イエスは舟の中で枕をして寝ておられた。弟子たちが「私たちが溺れてもいいのですか!?」と抗議すると、立ち上がり、海に向かって「静まれ!黙れ!」と言われた。すると嵐は収まり、そして言われた「なぜ怖がるのか!まだ信じないのか!」
嵐の中の舟、それはイエスの苦難の旅の象徴…しかしその中でイエスは安らかに眠っておられた。神にすべてを委ねることのできた人こそが持つことのできる、本当の平安な心がそこにある。
映画『ボンヘッファー』の中で、ナチスの弾圧を避けるために一旦はアメリカに避難したボンヘッファーが、「この困難な時に仲間のもとを離れてアメリカに逃げるのは間違いではないか」と自問し、再び帰国を決意する場面があった。はたして帰国後、彼は再び反ナチスの運動に加わり、それが原因で逮捕され、「ヒトラー暗殺計画に賛同した」という理由で処刑された。39歳、ドイツ降伏のわずか1ヶ月前のことだった。
処刑前の獄中で、婚約者に向けて書かれた手紙の中に一編の詩あった。それが讃美歌469「善き力にわれ囲まれ」である。そこには困難な時代の中で、正しい道を歩もうとする者の覚悟と、神にすべてを委ねる透明な信仰が歌われている。アメリカに渡る船の中で、彼はヨナのような心境だったことだろう。しかし帰国する船の中では、イエスのような心へと導かれたのではないかと思う。
これから先、日本が困難な時代を迎える時が来るかも知れない。そんな時、教会はヨナのように逃げて「ふて寝」を決め込むのだろうか。そうではなく、イエスやボンヘッファーのように神のみ旨にすべてを委ね、神に従う決意を大切に抱きたい。そしてそのような人にこそ与えられる、安らかな眠りへと導かれるものでありたい。
