『 すぐに従った 』楠元 桃 伝道師

2015年8月30日(日)
マタイによる福音書4:18-22

ペトロとアンデレがイエスに招かれ、弟子となった場面である。この箇所を読む時に思い出す出来事がある。高3の夏、神学部への進学を志していた私は、同志社の懸賞論文に応募した。新島襄伝を読み、「人間をとる漁師」としての新島の姿を描き、「私もその後を追いたい」としめくくった。同志社には進めなかったが、論文は高校の部で一位をいただいた。

この夏、夫の長崎の実家に帰省した。その際にいくつかの長崎のカトリック教会を訪ねた。小さな漁村に「こんな大きな教会が?」と思うような立派な教会がいくつも建っていた。220年に及ぶ弾圧を耐え抜いたキリシタンたちの信仰の力を感じた。

枯松神社という神社には、弾圧を受ける中で信徒を支え続けた宣教師が祀られている。周囲のお墓には仏教の戒名とクリスチャンネームが混在する碑銘がそこかしこにある。それが「あたり前」の風景であることは、とてもすてきなことだと思う。

志津教会で明治時代から使用しているオルガンを弾かせてもらった娘は、帰ってきてから天草四郎や細川ガラシャの物語に興味を持つようになった。細川ガラシャは、宣教師の教えを聞き、その福音に心を委ね、一回しか教会に行かずして洗礼を受けたという。その強い思いはどこからきたのだろうかと考えさせられた。

ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、イエスに声をかけられると「すぐに従った」と記されている。私たちは「すぐに従う」ことができるだろうか。わが娘の得意な言葉は「ちょっと待って」。でも私たちもその言葉を得意としているのではないだろうか。神さまに「ちょっと待って」と言い続けている私たち。なかなかすぐに「ハイ、やります!」とは言えない。しかしそんな私たちのことを、神さまは待っていて下さると信じたい。すぐに従った弟子たちも、その後立派な人生を歩んだ… 訳では決してなかった。そのことに逆に救われる思いである。

戦後70年、日本を覆いつつある黒い空気の中、命を懸けて信仰を守らねばならない時が来るかも知れない。自分なりの足取りで神に従っていこう。

 
(文責=川上)