『 新しく創造される 』

2015年9月6日(日)
ガラテヤ 6:11-18

「♪朝目覚めて祈る、新しいこのいのち、食べ物も着る物もくださる神さまに」「♪ハレルヤ、たたえよう、すばらしい神さま。あなたの愛受けて、ぼくらはここにいる。」この夏行なわれたCSシニア科キャンプで、英語のプレイズソングを日本語に訳した。それがこの歌詞である。

この歌詞には、私たちの信仰の「キモ」となるポイントが2つ含まれていると思う。「朝目覚めて、きょうの命を感謝する。」「あなたの愛受けて、僕らはここにいる。」という言葉だ。日々の命を「あたり前のもの」と受けとめると、どうしても人間は自己中心的になる。そうではなく、あり得ないくらいの奇跡と受けとめ、日々感謝の気持ちで一日を始める… それが信仰に基づく豊かな生き方だと思う。

しかしその理念の大切さを思いつつ、一方で考えさせられるのは、この歌詞の通りにはなかなか生きられないということである。感謝するより先にその日の予定のことに心を向け、昨日と同じように明日も当然生きているという前提で物事を考えている。そうして日常に流され、いつの間にか自分の都合だけを考えて生きてしまっている。しかし、だからこそ私たちは週に一度集まって礼拝をささげているのではないか。大切な事柄をすぐに忘れてしまう私たち。そんな私たちには、週に一度の礼拝が必要だ。

「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです。」とパウロは語る。イエス・キリストを信じて救われるのに、まず割礼を受けユダヤ人となることが必要だと主張する保守的ユダヤ人の意見に対し、パウロは割礼無しで、つまり異邦人が異邦人のまま救われる道を説く。それは、「自分は割礼を受けている」という事実によりかかってしまって、信仰により日々新しくされる歩みを忘れてしまった人々への批判となってゆく。

同じことがクリスチャンにとっての洗礼についても言えるのではないか。洗礼を受けていない人のことを「救われてない人」と称することに、私はずっと違和感を抱いている。「洗礼を受けているから私は救われている。」その事実に留まってしまい、日々新たにされることを忘れるならば、私たちもまたパウロの批判の前に立たされるであろう。

しかしパウロはもう一つ大切なことを述べている。それはイエスの十字架のことである。十字架への道を歩まれたイエス。そのイエスを救い主=キリストと信じる信仰の中で、日々新たにされることが大切なのだ。

誰もが素直に素朴に「日々の命を感謝する」という生き方を送れる訳ではない。病気、貧困、差別、そして戦争…。そんな現実が素朴な感謝を阻害するものとして立ちはだかる。その現実を何とか作り変えようと与えられた命を用いてゆく。たとえそのことで自分自身が傷つき重荷を背うことになっても、その課題に向かって進んでゆく。その歩みを貫いてイエスは十字架を負われた。その十字架をこそ誇りに思い、十字架への歩みの豊かさを信じ、自分を変えていただく。それが「新しく創造されること」なのだ。