『 神さまの経済学 』

2015年9月20日(日)
テモテ第一6:2b-12

多くの国民の反対の声にも関わらず、安保法制が成立した。これで戦後70年、平和憲法により戦争をしてこなかった日本の歴史が大きく変わることになるだろう。今回政府がこのように強行に採決に向かったのは、衆議院で与党が絶対安定多数の議席(3分の2以上)を得ていたからだ。しかしその議席を与えた昨年11月の選挙で、争点となっていたのは安保法制のことではなく、「アベノミクス」と言われる経済政策への是非であった。

誰でも景気は悪いよりは良い方がいいと思う。しかしそのような素朴にも思える願いの奥底にある欲望というものが、3分の2という数に現れたのではないか。今回のような事態を招いたのも、「景気回復」という売り文句に多くの人が乗せられてしまった結果だと言えるかも知れない。

しかし、そもそも「経済状況が良くなる」というのは、単にお金が儲かることなのだろうか?「経済」という用語の元になった「経世済民」という言葉は、「世を経め(おさめ)、民を済う(すくう)」という意味を持つ言葉であった。英語のエコノミーの語源である「オイコノミア」も、「オイコス(世界)」のための「ノモス(法、掟)」という意味の言葉である。それらは単にお金儲けのことではなく、この世界をふさわしく統べ治める作法のことである。

今日のメッセージには「神さまの経済学」というタイトルをつけた。神さまの経済学は、私たち人間の欲望と利得を源としたお金儲けの仕方の話とは異なるものである。パウロは弟子のテモテに宛てた手紙の中でこのように語る。「金持ちになろうとする者は、・・・ 無分別で有害な欲望に陥ります。欲望が人を滅亡に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。」(テモテ第一6:9-10)

何も聖書は「お金は諸悪の根源である」などという原則論を語っているわけではない。お金というものは、人間が生み出した大きな発明のひとつだと思う。好むと好まざるとに関わらず、私たちの暮らしはもはやお金なしには考えられない。しかしそんな社会に生きる者だからこそ、そのお金の用い方については心を配れるものでありたいと思うのだ。

私たちの肉体の欲求には限度がある。しかし欲望は限界を知らない。例えばどんなに空腹であっても、一定量食べればその不足は満たされ、しばらくは次の空腹までの充足へと至る。しかしお金に対する欲望は脳の中の出来事(幻想)であり、それは止まるところを知らない。その欲望に引きずられてしまうと、自ら破滅を身に招くことになってしまう。

「不確かな富に望みを置かず、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えなさい。」(6:17-18)これが神さまの経済学である。J.ウェスレーは「できるだけ儲け、できるだけ節約し、できるだけ与えなさい。」と常々教えていたという。「何も持たずに世に生まれ、世を去るときには何も持って行けない」(6:7) そんな私たち人間にとって、自らの欲望や金銭の魔力から解放され、満ち足りることを知り、分かち合う喜びを知る。そんな神さまの経済学の世界に生きるところに、ほんとうの豊かさがあることを信じたい。