『 神さまは不公平? 』

2015年9月27日(日)
ルカによる福音書16:19-31

「神さまは不公平?」この言葉を聞いてどう思われるだろうか?「そんなことはない。神さまが不平等、不公平であるはずがない!」そう思う人もいるだろう。確かに理想としてはその通りだ。しかし実際には「神さまは、不公平だ…」そう思ってしまう現実も訪れる。

同じ命を与えられている… その点については平等だ。しかし例えば容姿、例えば知能、例えば賃金の格差… それらのものに明らかな差がある時に、私たちの理想は激しく揺さぶられる。

「不平等」と「不公平」は、似ているようで少し違う。「平等」、それはフランス革命のスローガンでもあった、近代社会においては大切な理想だ。しかし理想であり、目標である「平等」も、それを原則や権利として主張する時に、少々やっかいなことが生じてしまうこともある。

かつて、運動会で順位をつけるのは不平等なので、みんなで手をつないでゴールインするというやり方をした小学校があったという。「どこかヘンだよ」という思いを拭えなかった。それは行き過ぎた平等主義ではないか。

どんなに手を尽くしても、すべての人が同じ体験の中を生きられる訳ではない。それぞれの体験は違う… その違いの中で、それぞれの喜びや達成感、そして幸せを感じられるように努める… それが「公平」というものではないか。

「神さまは不平等か?」と聞かれれば、誤解を恐れずに言えば「ある意味そうだ」とも答えられる。しかし「神さまは不公平か?」と聞かれるならば、「それはちがう」と答えたい。

ラザロと金持ちのたとえ話である。生きている間に裕福でいい思いをした金持ちは、死んだ後陰府の炎に焼かれるが、生きている間苦しみの人生を歩んだラザロは、アブラハムと共に天国の宴席に加わっている。金持ちが神に抗議すると、「あなたは生きてる間に良い思いをした。ラザロはそうではなかったのだ」と答えが返ってきた。

この譬えを通してイエスは何を言おうとされたのだろうか?それは、「神さまの選びは私たち人間の目には不平等・理不尽に見える」ということではないか。それはユダヤ人が長く受け継いできたメッセージである。「家造りの捨てた石が隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える」(詩118編)

神さまの公平は、人の目には偏ったものと映るような形で示される。この世の最も弱く貧しい人を救うという偏りの中に現わされる。それがイエスのメッセージだ。

「そうは言っても世の中はまだ格差がある。神さまはそれに対して何もしてくださらないではないか。」という声もあろう。しかしそれを正すのはひとり神さまだけの仕事ではない。神の公平によって心を開かれた人間が担うべき課題なのだ。

イエスが示された「神の公平」というものを信じよう。そして、「みんなが等しく同じ幸せを求める道」ではなく、それぞれが手触りの違ったそれぞれの幸せに至れる道を見出していく者となろう。