2015年10月4日(日) 世界聖餐日
ルカによる福音書17:1-10
「神さまは、きっと私を救って下さる。」そのような信仰の確信を抱ける人は幸いである。どんな試練や苦しみ、また不甲斐ない自分の姿であっても、それでも与えられる神の救いを信じて日々を歩む。そんな信仰を教えて下さったのがイエス・キリストだ。
しかし、そのように神の救いを確信する信仰を抱くことと、「神さまは当然私たちを救って下さるはずだ、私たちは大切に扱われるべきだ」と考えることとは、全然違うことだ。神の救いはただ神さまの恩寵として与えられるものであって、人間が神さまに対してまるで義務の履行を求めるように要求するものではないのだ。
人間の欲望に仕える神を求める心情は、どんなに表面的な敬虔さに満ちているように見えようとも、基本的には「偶像崇拝」である。むしろ「何が神の御旨であるかをわきまえ知るようになる」(ロマ12:2) ことこそが信仰者の目指す歩みである。そのような信仰に支えられて、「神と世界に仕える」。それも信仰者の大切なひとつの課題である。
今日の箇所は少し奇妙なイエスの譬えである。一日の仕事を終えて帰ってきた僕(雇われ人)に対して、主人のねぎらいを求めてはいけない、というのである。主人は働き人が疲れていようがおかまいなしに、「私の食事の給仕をしろ」と言う。温かみのない冷酷な主人の姿に思えてしまうが、イエスがこの主人の姿に例えているのは、神さまご自身である。
この譬えを通して、イエスは何を言おうとされるのか。それは私たちが神と人に仕えるに際して、見返りを求めてはならない、ということである。ずい分厳しい話だと思うが、この譬え話でイエスは神と人に仕える者にとっての大切な心構えを示しておられる。「私は取るにならない僕です。すべきことをしたにすぎません。」それが奉仕に臨む人の大切にすべき心情だというのだ。
例えば被災地でのボランティアのような場所に、見返りやねぎらわれることを求めて出かけるような人は稀であろう。しかし日々の小さな奉仕においては、そういう気持ちを抱いてしまうことはしばしばある。私たちはちっぽけな人間に過ぎない。そんな私たちにとって、今日のイエスの教えはとても厳しいものに思える。しかし、だからこそ大切な教えなのだ。