『 神の国の到来 』

2015年10月11日(日)
創世記6:5-8、ルカ17:20-37

イエス・キリストの宣教の、ひとつの大きな柱は、神の国の到来を告げ知らせることだった。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)ユダヤ人にとっての「神の国」とは、死後に行く世界ではなく、この現実の中に訪れる「神の支配」のことだった。

では「その神の国がやってくる」という言葉を聞く時、人々はそれをどのように思い浮かべていたか。当時の人々のイメージを表しているのが、ノアの箱舟の物語だ。ノアの時代の洪水のような天変地異の出来事が起こり、メシヤ(救い主)が現れて罪人たちが裁かれて一掃された後、神の愛と正義が支配する神の国がやってくる…それが当時のユダヤ人の一般的な神の国イメージであった。

バプテスマのヨハネはその厳しい神の裁きを最も声高に、それこそ火の出るような厳しさで語った預言者であった。「よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:9)そしてヨハネはイエスに期待した。「この人こそ、来るべき方=メシヤ・キリストに違いない」と。

ところが待てど暮らせどイエスの周りから世の終わりが来る気配がない。ヨハネはイエスに尋ねる。「来たるべき方はあなたですか。それとも他の人を待つべきでしょうか」。イエスは答えられた。目の見えない人は見えるようになり、足の不自由な人は歩き、(中略) 貧しい人は福音を聞かされている」。それらのところに訪れている小さな救い・喜びの出来事、「それが神の国だ」ということではないか。神の裁きを求めるヨハネに対して、神の救いをこそ示されるイエス。その違いが浮き彫りにされる。

今日の箇所では、イエスと対立するファリサイ派が「神の国はいつ来るのか」とイエスに尋ねた。イエスは「神の国はあなたがたの間にある」と答えられた。その後、弟子たちに向かっては、ノアの箱舟のことを語り、ソドムとゴモラの滅びの出来事を語り、「いつその事が起こってもいいように、備えていなさい」と語られた。この二つの言葉、前半と後半では内容的にギャップがあるように感じる。

後半の言葉は、ヨハネをはじめとする当時の人々のイメージしていた神の国、即ち神の裁きと共にやって来る神の支配の到来と重なる内容である。確かにイエスもそのようなことを言われた時があったのかも知れない。しかしイエスはただ神の裁きだけを語り、人々を脅すようにして改心させる方ではなかった。むしろ神の赦しを示し、「こんなヤツはダメだろう…」と思うような人にまで与えられる赦しの福音をこそ語られたのだ。

そう考えると、ファリサイ派の質問に答えられた前半の言葉にこそ、深い味わいがあるように思う。「神の国はあなたがたの間にある。」すなわち、人と人が出会い、交わり、小さな救いを喜び合うところに神の国は到来しているのだ、と。

からし種のたとえや、パン種のたとえのように、小さなところから大きくなる、初め小さくてもやがて膨らんでいく、そんな神の国をイエスは目指しておられたのだと思う。イエスが目指し、人々に告げ知らされた神の国は、やがて膨らんで世界に広まっている。私たちも神の小さな救いの出来事から始まる神の国の到来を、心から信じ、また待ち望もう。