『 いのちのパン 』

2015年11月15日(日)
出エジプト16:9-18 ヨハネ6:27-35

「人はパンのみに生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる。」荒野の誘惑の場面でイエスが語られた言葉である。人は「食って寝る」という生命を維持するのに最低限のことだけが確保されればいいのではなく、心や精神が豊かにされて本当に生きるものとなる… そんなことを考えさせられる言葉だ。

しかし、イエスは「体より心が、肉体より精神が尊い」という意味でこの言葉を語られた訳ではない。貧しい庶民にとって今日のパンを手に入れることがどれほど大変で貴重なことか、イエスはよく分かっておられた。「パンのみに生きるのではない」とは言われたが、「パンは必要ない」と言われた訳ではない。

もともとこの言葉は、旧約聖書(申命記)に記された言葉を引用されたものだ。エジプトの奴隷の状態から解放され、自由への旅を続けるイスラエルの人たち。食べ物が底をつき困り果てた時、不思議な食べ物(マナ)が与えられた。申命記の言葉は、そのマナが与えられたことに関連して記されたものだ。つまり、マナ(パン)が与えられたことも含めて、人をその心も身体も全体的に養い導かれる神の働きが語られているのである。

ヨハネ福音書では、イエスは「わたしはいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない」と言われた。具体的な「モノ」としてのパンを求める群集に対して言われたこの言葉は、どこか抽象的でつかみどころがない。「イエスはいのちのパン」。この言葉をどうとらえたらいいのだろうか。

教会に時折食べ物を求めて来られるホームレスの人々がいる。その人たちに「イエス・キリストこそいのちのパンです。」と言って聖書を差し上げても、その人にとっての「差しあたっての問題」は何も解決されないだろう。では「イエスこそいのちのパン」と信じる信仰は、そのような現実に対してまったく無効なのだろうか。

かつてサルトルは「文学は飢えた子どもの前で有効か?」と問題提起をした。私も3.11.直後に同じような問いを心に抱いた。「この惨状を前にして、歌をうたうことに何の意味があるだろうか。」その時たどり着いた答えは、「確かに歌や文学は現実の問題を直接は解決しない。しかしすぐれた歌や文学は、その現実を何とかしようという志を人に抱かせるのではないか。」というものだった。

同じように、イエス・キリストという「いのちのパン」は、直接人々の飢えの現状を作り変えることはできない。しかし「この困った現実を何とか変えていこう」と思う人を生み出すのである。イエスの言葉に導かれ、自分が生きていることの意味を知る。その時私たちは「永遠のいのち」に触れるのである。