『外から届いて響く言葉』

2015年12月6日(日)
列王記上22:6-17第2ペトロ1:19-21

前橋教会では、毎週の主日礼拝でメッセージを語る聖書の箇所を、教団の聖書日課に基づいて選んでいる。これは教会暦に基いて、教団の委員会の人々によって練りに練って選ばれた箇所なのであろう。私はこれまでの牧師の経験の中では「連続講解説教」というスタイルで行なっていた。同じ聖書の巻を(例えばマルコならマルコを、創世記なら創世記を)続けて読んでいく方法である。

同じ個所を続けて読むメリットは、著者の思想・神学に馴染むことでメッセージを受けとめやすくなることだ。同じ銘柄のお茶を続けて飲むような感じ。しかし聖書日課で行なうと、毎週違う銘柄、時には紅茶やコーヒーも飲むような感覚になる。それはそれで新鮮であるが、時に困ることがある。それは「この箇所で、何を語ればいいのか?」と思うようなところに出会ってしまうことだ。何を隠そう、今日の聖書日課・旧約の箇所がそれである。

イスラエルが南北に分かれていた時代、北の王アハブと、南の王ヨシャファトが、アラムの国と戦うべきか話し合っている場面である。ヨシャファトが「主の言葉を聞こう」というので、アハブは4,000人の預言者を集めて預言させた。彼らは「おかかえ預言者」であり、王に都合のよい預言しか語らない人々であった。「どうぞ攻め上って下さい。主は王の手に敵を渡されるでしょう」預言者たちはそう語った。

ヨシャファトが「他にはいないのか」と言うので、アハブはもうひとり、ミカヤという預言者の名を挙げた。アハブはミカヤを嫌っていた。都合のよい言葉を語らず、災いばかりを語ったからだ。しかしその男の声も聞こうと、ミカヤを呼び寄せる。使いの者はミカヤに「どうか、王の気に入る言葉を語って下さい」と頼むが、ミカヤは「私は主の真実を語るだけだ」とその願いを突っぱねた。

ところがミカヤが王たちに告げたのは、「どうぞ攻め上って下さい。主は王の手に敵を渡されるでしょう」という、他の預言者たちの語ったのと同じ言葉だった。するとアハブは「なぜお前は真実を語らないのだ!」と憤慨した… そんなお話だ。

何とも奇妙な物語。どうしてアドヴェントにこの箇所が選ばれたのかと首をかしげてしまう。しかしじっくり考えてみると、「神の言葉を聞くとは、こういうことではないか」と思えてきた。アハブは自分にとって都合のよいおべっかのような言葉ではなく、本当は「真実なる神の言葉」を聞きたかったのではないか。

「神の言葉を聞く」と言う時、私たちは例えば試練の時の励ましであったり、悲しみの中の慰めであったり、喜びの時の祝福の言葉を期待する。しかしそのような言葉だけを聞こうとすることは、自分の聞きたい言葉を聞いていることではないか。それでは結局、自分の内なる言葉を聞いているのに過ぎないのではないか。

神の言葉とは、「外から届く言葉」である。それは時に、自分にとって都合の悪い言葉であるかも知れない。少々耳の痛い、心の奥底に秘めている疚しさをあぶり出すような言葉も含まれている。しかしそのような言葉が私たちを本当の豊かな歩みに導いてくれるならば、それもまた「よきおとずれ」なのだ。

「救い主の到来」を告げる言葉。それも「外から届く言葉」だ。すべての人がその知らせを歓迎した訳ではない。しかしそれでも神への信頼をもってその言葉を受けとめる時、それは「心のうちに響く言葉」となるのである。