『 いつ来られてもいいように 』

2015年12月13日(日)
マラキ3:19-24、ヨハネ福音書1:19-28

子どもの頃一度だけ、キャロリングの待つ側にまわったことがある。キャロル隊の訪問予定の時間はあまりはっきりと知らされず、突然やって来る。歌声に気付いて出迎え、共にろうそくの火を灯してキャロルを歌った。いつ来るか分からないキャロル隊の到着を、今か今かと待つ体験は、じれったくもあり、楽しい経験でもあった。

インターネットの時代、高速で情報が行き交い、自分の願いが何ひとつ過不足なく瞬時にかなえられる現代の風潮の中、私たちは待つことができなくなっている。ネットにつながる5秒のタイムラグ、エレベーターの扉がしまる3秒の間を「遅い!」と感じる昨今、「待つ」という体験の尊さを大切なものとして受けとめたい。

「見よ、その日が来る。 ・・・ 義の太陽の昇る日が。」預言者マラキの語る、神の救いの到来を予言する言葉である。「いつそんな日が来るというのだ!?お前たちの神はどこにいる!?」あざける敵が言葉を浴びせる。「それでもその日は来る!」そう信じて待つのがユダヤ人の心得であった。

待ち続けるユダヤの民の前に、救い主の到来を知らせるために現れたのが、バプテスマのヨハネである。「私は『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ声だ」。いつ主が来られてもいいように、人々にその備えをすることを呼びかける…それが自分の役割だとヨハネは自認していた。

イエスもまた神の国の到来を予言された。「それはいつ来るか分からない。洪水が押し寄せるように、強盗が襲うように、突然思いがけない時にやってくる」とイエスは言われる。突然の来訪客に慌てふためくことにないように、いつも準備をしていなさい、と。

では、「いつ来られてもいいように待つ人の姿」とは、具体的にはどんなものだろうか?

クリスマスの時期によく物語られる「靴屋のマルチン」というお話がある。夢の中で「明日あなたのところへ訪ねていくよ」というキリスのお告げを受けて待ち続けるマルチン。待っている間に雪かき人夫や貧しい親子、リンゴを盗んだ少年に親切にしてやるが、ついにキリストは現れなかった。その夜マルチンはキリストの声を聞く。「今日は親切にしてくれてありがとう。雪かき人夫、貧しい親子、そして少年の中に私はいたんだよ。」マタイ福音書25章の「これらも最も小さな者のひとりに…」というイエスの譬えが下敷きになった物語だ。

この短編の原題は『愛あるところに神あり』。救い主の到来を、いつ来られてもいいように待つ、ということは、その愛を大切に人々と向き合い生きることではないか。「今ここにイエスがおられたら、こんなことをして差し上げよう…」というその思いを、隣人に向けること。それが「いつ来られてもいいように」待つ人の姿である。