2016年1月3日(日)
イザヤ40:25-31,ヨハネ1:14-18
2016年、新たな年を迎えた。新年を迎えると「今年はこんな生き方を目指そう」という気分になる。神社の初詣に出かける多くの人。ご利益を祈願する人が多いという印象があるが、本来の神社の祈願とはそういうものではないという。
たとえば合格祈願をする受験生。「○○大学に受かりますように!」と神頼みをするのは、本来のあり方ではない。そうではなくて、「私は○○大学に合格できるように頑張ります。どうぞ見ていて下さい!」そのような決意表明をする場なのだそうだ。祈って、後は神さまにお任せ…というのではなく、祈ることによって行動を生み出していく。それが本来の祈りのあり方と言えよう。
今日の箇所(旧約)は、バビロン捕囚後の混乱期に活動した「第二イザヤ」という預言者の言葉である。イスラエルの歴史でも最大の苦難であったバビロン捕囚直後の状況、それは太平洋戦争直後の日本や、東日本大震災直後の被災地の状況に重なるかも知れない。大きな苦しみの直後、目の前にある現実を見れば、ため息と将来への不安しか生まれてこない。「我々は神に見捨てられた…」と呟くような状況。そんな中でイザヤは「天を見上げよ。」と語りかける。
天を見上げ、天地を創られた神の御業に思いを向ける。自分たちにとって重大に思えるこの出来事も、神の目から見ればほんの一瞬の出来事なのかも知れない。主なる神はもっと大いなる目的を持って、この世界を美しいものとして創られたに違いない… そのように信じることができる者は、「新たな力を得、鷲のように翼を張り、走っても弱らず歩いても疲れない。」そうイザヤは断言する。そんな天を見上げる営みを大切にしたい。
しかし一方で、私たちは天を見上げて神の思いを尋ねることをもって、「救われ切って」しまってはいけない、とも思う。なぜならば神さまは我々が心悩ませるこの世の出来事を、天の高みから傍観者のように眺めておられる方ではなく、その世界を何とか救うために、イエス・キリストを遣わして下さった方だからである。「言は肉となった」というヨハネ独特の言葉遣いは、神が愛をもって私たちの生きる世界の事柄に関わって下さったことを表している。
だからこそ私たちもこの世の出来事に向き合い、関わっていくことが大切なのだ。ただ天を見上げて神さまのことだけを考えて、「救われ切って」しまってはいけないのである。
時に絶望的な思いに打ちひしがれる出来事があるかも知れない。そんな時には天を見上げて希望を取り戻そう。そしてその見上げた眼差しでそのまま前を見つめ、世界の出来事との関わりを大切にして歩んでゆこう。