『 聖霊によるバプテスマ 』

2016年1月10日(日)
ヨハネによる福音書1:29-34

教会で洗礼式が行なわれると、私たちは受洗した人に「受洗おめでとうございます」と挨拶する。イエス・キリストの教えとその生涯を救いの出来事(福音)として信じ受け入れられたことへの祝福として「おめでとう」と言葉をかける。しかし私はいつの頃からか、はたしてそれが本当にふさわしい言葉なのか、考えるようになった。

初代教会のローマによる迫害の時代、あるいは日本のキリシタン禁制の時代に、洗礼を受けるということは、イコール弾圧・迫害に晒される厳しい道に進むことになる。簡単に「おめでとう」とは言えなかっただろう。

今は迫害の時代ではない。にもかかわらず現代日本社会でクリスチャンとして生きることは、なかなか大変である。「人がその友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない。」そのような愛に生きよとイエスは命じられるが、それは現実社会の中では「損な生き方」とも映る。けれどもそのバカげたような生き方にこそ本当の豊かさがあるのだと信じるのがキリスト教信仰ではないか。

だからその道を進むことを決意した人に向けて、「おめでとう」とは違う言葉があってもいいと思うのだ。「その道を選んでくれて嬉しいよ」とか、「不完全でも支え合って生きていきましょう。」といったような…。

今日の箇所は、イエスの活動の前に準備の働きをした、バプテスマのヨハネの言葉である。イエスもヨハネから洗礼を受けられた。しかしそれは信仰生活の「ゴール」ではなく、十字架に至る宣教の生涯の、新たな始まりであった。

そのイエスについて、ヨハネはこう語る。「私は水でバプテスマを授けたが、後から来られる方(=メシヤ)は聖霊でバプテスマを授けられる」。『聖霊によるバプテスマ』とは何か?それは私たちにとってどんな体験だろうか?

教会において授けられるバプテスマは、水によるバプテスマである。それはその人にとって生涯に一度の大切な儀式である。しかしそれはあくまでも人間の行なう、入信のための制度化された行為であることを忘れてはならない。それを忘れると、本来神さまの領域である「罪の赦し」とか「魂の救い」といったことを、あたかも人間が手の内において管理しようとする過ちを犯すことになる。水の洗礼を受けた人と受けない人の間に、「救われた者とそうでない者」との線を引くような…。中世カトリック教会は、水の洗礼による区別にとどまらず、水の洗礼を受けた信者にさえ「免罪符」の購入を強要した。「それを得なければ罪の赦しは得られない」との脅しと共に…。

これに対して、聖霊によるバプテスマとは、人間の行なう儀式に収まらない、もっと自由で直接的な神さまからの働きかけの出来事ではないだろうか。キリストを信じるひとりの人間にとって、大切なことは水によるバプテスマを受けるそのこと自体にあるのではない。日々新たに神さまによって導かれそのことによって造りかえられる、その体験こそ大切なのだ。一度受けた水によるバプテスマの既成事実の上に安住することなく、聖霊を受け日々新たに生きる。そんな歩みへと導いてくれるのが「聖霊によるバプテスマ」である。

十字架に向かって歩まれたイエスのような、この世的には損に思える歩みの中に、本当の豊かさがあることを信じさせてくれる。そんな聖霊によるバプテスマは、生涯一度限りでなく、洗礼式の前も後も、いつまでも私たちに与え続けられるものではないか。イエスは今日もそんな聖霊によるバプテスマを、私たちに与えて下さる。