『 まことの自由を得るために 』

2016年1月24日(日)
ヨブ記22:11-17、ヨハネ福音書8:28-32

現在世界を席巻している「新自由主義」という経済政策がある。これは経済活動における政府や国家の介入をなくし、各国が自由に競争することで活力を生み出そうとする考え方だ。TPPによる関税撤廃もこの流れの中にあると言える。

自由に選択し、自由に参入し、自入に競争して、その結果手にした利益はその人が自由に使えるようになる。これは人間の欲望や野心に火をつける。しかしそのような「自由な」競争の結果、どうしても生じることがある。それは貧富の差だ。「新自由主義」の中では、それは「自己責任」ということになるらしい。

自己決定、自己責任、自由競争、勝者総取り…。はたしてそれが「自由な」社会の姿だろうか?むしろ人間が自らの欲望の奴隷になっている姿に思えてならない。ツアーバスの事故も、消費期限切れのカツの問題も、つきつめれば「コスト削減」、すなわち「利益優先」の考えにとらわれているところから生じたものではないか。

わたしたち人間は、いつも何かに、自分でも気づかないうちに「とらわれる存在」である。それはどうしようもできない「業」のようなものかも知れない。しかしそのことを知っておくことは大切なことだと思う。

ヨブ記は、信仰的に正しく歩んだにもかかわらず、様々な苦難や試練を負うことになった者が、神に対して不平・不満を語る物語である。ヨブの不満はもっともらしいようにも思える。しかし、ヨブには酷なことであるが、やはりそこにはひとつの「とらわれ」があると言わざるを得ない。「神は信じる者には恵みを、恵みだけを与えて下さる」という思い込みである。

それはある意味素朴な信仰と言えるかも知れない。しかし苦難・試練の時、その素朴な信仰だけではむしろつまずいてしまう。そのような時こそ「自我」というとらわれから解き放たれて、世界の中での自分を見つめ、「信じるとはどういうことか」を考えることが肝要である。

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とイエスは語られる。ここに、あの類稀なるイエスの強い生き方、また愛の深い生き方の源泉が感じられる。人間の作りだした価値観によらず、天の価値観、神のみこころ(真理)を絶えず訪ね求める。そこに、何ものにもとらわれることのない、まことの自由が与えられるということだ。

私たちが「自分は見識を持っている」「信仰を持っている」「私は自由である」と思う時、その姿はひょっとしたら何かの奴隷になっている姿かも知れない…そんな眼差しで自らを振り返ることを大切にしたい。そして、人間が生み出した何らかの価値観によってではなく、神の真理によって自由に歩まれたイエスの姿を見つめながら、まことの自由を目指して歩みたい。