『「神はどこに!」と思えるときに 』

2016年1月31日(日)
ヨブ記23:1-10、ヨハネ福音書5:1-9

先週に引き続きヨブ記の箇所である。ヨブは理不尽な苦しみの中で「神はどこに!」という悲痛な叫びを上げる。それは苦難の歴史を歩んできたユダヤ人たちが、その中でいかにして信仰を保つのかを自問する姿を示しているとも言われる。「神はどこに!」という瀬戸際に立たされた際、人間はどうふるまうことができるだろうか。

♪「神さまは、いない!/だって祈ったもん、『思いが届きますように』って/祈ったもん、祈ったもん」(矢井田瞳/My sweet Darlin)。素朴な少女の恋心を歌った歌であるが、「自分の願いが叶えられるように祈ったけど、叶わなかった。だから神さまなんていない」というのは、成熟した信仰とは言えない。

レヴィナスは、ナチスのホロコーストの体験から「神は我らを見捨てた」と言って信仰を捨てようとした同朋に向かって、言った。「善行者には報いを、悪行を働いた者には罰を与える…そのような単純な神は『幼児の神』である。・・・もし神がその威徳にふさわしいお方であるなら、必ずや“神の支援抜きで公正と平安をもたらすことができる存在”として人間を創造されたはずである。」このようにしてレヴィナスは、「神の不在」を「神の存在証明」と読み替えた。

同じことをキリスト教の立場で発言したのが、ナチスへの抵抗で知られるD.ボンヘッファーだ。「神は、私たちが神なしに生活を処理できる者として生きねばならないことを、私たちに示される。私たちと共にいます神とは、私たちを見捨てたもう神なのだ(マルコ15:34)。神の前で、神と共に、我らは神無しに生きる。」シモーヌ・ヴェイユはもっと端的に、「存在しない神に祈る。」と言い切った。いずれも、「神の不在」と思える状況の中で、それでも信じる道を極めた人々の言葉である。

ベトサダの池で38年間も待ち続けていた病気の人。「水が動く時に入れば最初の者は癒される」という伝聞を頼りに待ち続けたがいつも先を越されてしまう。まさに「神から見捨てられた」と思い続けた38年間ではなかったか。しかしイエスはこの人に目を留め、「治りたいのか」と声をかけられた。彼の意志をまず確認されたのである。どんな病気の人にも、重い障害を持った人にも、「自己決定権」はあるのだ。

この人はイエスによって癒された。病気が治ったということに限らず、絶望が希望に変えられたということであろう。「神から見捨てられた」と思っていた人が、イエスと出会うことでいのちを取り戻したのである。

私たちにも「神はどこに!」と思える状況が訪れるかも知れない。苦難の中で中空を見上げても何も見いだせない… そんな時、それでも私たちにははっきりとした拠り所がある。それは十字架の上で「わが神、なぜ私を見捨てられたのか!」と叫びつつ、最後まで神に従って歩まれたイエス・キリスト、その人である。