『 見えるようになるということ 』

2016年2月21日(日)
列王記下6:15-17,ヨハネ福音書9:35-41

アメリカの天体望遠鏡で「動力波」の観測が確認されたというニュースが世界を驚かせた。「動力波」とは、「超新星爆発やブラックホール合体時に起こる空間の歪みに伴って生じるこれまで人類が見たことのないエネルギーの波動」のことだそうだ。それがいったいどんなものなのかまったくイメージできないが、これにより星の誕生は宇宙の起源など、これまで見えなかったものが、見えるようになるかも知れないという。

見えなかったものが見えるようになる体験は、身近なところにもある。会津にいた時わらび採り連れて行ってもらった時、名人には見えるわらびが、私には最初はまったく見えなかった。しかし慣れると見えるようになるのである。

逆に目に入っているものがまったく見えていない体験もある。黄色い表紙の本を探しているのにまったく見つからない。よくよく探したら、その本は机の上にちゃんとあって、それは緑の表紙だった。「黄色の表紙」と思い込んでいたので、目に入らなかったのだ。

人間が生きていく上である種の「常識」は必要だ。しかし常識や思い込みといったものがかえって妨げになって、見えているはずにものを見えなくさせてしまうことはよくあることだ。「私は分かってる。理解している。私は正しい。」そう思う人にこそ、「心の動力波」が必要だ。

旧約・列王記の箇所は、預言者エリシャに関する記述である。相手が権力者であっても臆せず真実を語り、その結果対決を余儀なくされる預言者。エリシャもエリヤもそのような歩みを重ねた。そしてそれはレントの季節、イエス・キリストの歩みにも重なるものである。

アラムの王との闘いの場面で、エリシャの従者は敵に囲まれた時、相手の軍勢にしか目に入らず狼狽した。しかしエリシャは「恐れるな、仲間の援軍が多くいる」と語った。物事に対処する時に、悲観的な予測を並べて歩む慎重なタイプの人がいる(従者タイプ)。しかし、何か事を為そうとする時には、敵しか見えない状況の中にも希望を見出そうとする、エリシャタイプの人が必要だ。

新約・ヨハネ福音書は、シロアムの池で目の見えない人を癒された奇跡物語である。「この人が見えないのは、本人の罪ですか?それとも両親ですか?」と、病気や障害の原因を「罪」と結びつけようとする弟子たちに向かって、イエスは言われた。「本人でも両親の罪でもない。神のみわざが現れるためである。」そう言ってイエスは彼を癒された。

この後、見えるようになった男をめぐって、ファリサイ派の人々とイエスとの間に論争が生じる。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」というイエスの言葉尻をとらえて、「それは我々が見えないということか」と言いがかりをつけるファリサイ派の人々に向かって、イエスは言われた。「あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(口語訳聖書)。ファリサイ派の罪は「見えると言い張る罪」なのである。

神の言葉に聞き従い、真理を目指そうとする… それが間違っているわけではない。しかしそれでもなお、私たちには神のみこころのすべてを知ることはできない… そんな自分へのふりかえりを忘れないようにしたい。それを欠いたまま生きている時に、私たちは自分では真実が見えているような気になりながら、本当に見るべきものが見えなくなっている姿に陥ってしまうのだ。

イエスこそ偏りのない眼差しで世界を見ておられた。そのイエスに従いつつ、「見えるようになる」歩みを目指したい。