2016年3月6日(日) レント賛美礼拝・東日本大震災を覚える礼拝
詩編22:1-12、マルコ15:33-34
「神はどこに?」そんな断末魔の叫びがあちこちにこだました…5年前の3月11日の出来事である。いま聖歌隊が歌ったアイオナ共同体賛美歌「神はどこに!」ではこう歌われている。「神はどこに!雷鳴とどろき、洪水溢れて、略奪と破壊、あぁ神はどこに!」
天に向かって叫ぶ歌詞に続いて、この歌はこう問いかける。「君はどこに!痛みも苦悩も、飢餓も戦争も、病気も死も『ひとごと』。君はどこに!」無関心のエゴイズムに閉じこもろうとする人の心に鋭く問いかける。
「神はどこに!」。この問いは、そのようなエゴイズムに生きる人には何の意味も持たないだろう。「神はどこに、だと?決まってるじゃないか、神などいないのだよ。我々は偶然この世に生きているだけなのだ。だから自分の身は自分で守らねばならない。人にかまっているヒマはないんだよ…」これは冷たい言葉である。しかし「神はどこに!」という問いには、ある意味答えていると言えるかも知れない。「神など、いない」と。
しかし私たちは神を信じる信仰に生きようと願っている。そんな私たちにとって、大地震の惨劇を前に「神はどこに!」と問いかけられると、出口のない迷路に迷い込んだような思いになってしまう。あの出来事の、どこに「神のみこころ」があるのか、私たちにはまったく分からないからである。
「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか!」そう叫んでイエスは息を引き取られた。「神に見放された…」そんな絶望のうちにイエスはいのちの終わりの時を迎えられたのだ。イエスはこの言葉と共に、神を信じる信仰を捨てて死んでしまったのだろうか?
そうではない、と私は思う。イエスはご自分の行く末に十字架の死が待ち受けていることを知っておられた。エルサレムへの道を進まずに、ガリラヤの小さな信仰共同体の導師として生きていれば、あんな最期を遂げなくても済んだだろう。でもそれではいと小さき人々が苦しむ現実、その現実を生み出すエルサレムは何も変わらない。この街に挑戦せねば…変革を挑まねば…それがイエスの歩みであった。
イエスの最後の叫び、それは「神さま、これでよかったんですか?この道しかなかったのですか?!」と神のみこころを尋ね求める言葉だったのではないか。イエスもまた答えの見えない道を歩まれた。しかしそう叫ばれた瞬間、ある意味最も近く神の存在を感じられたと思うのだ。十字架の苦しみの中で「それでも神を信じる」と。
大震災の現実の、どこに神のみこころがあるか、私たちにも分からない。しかし「それでも神を信じる」道を歩みたいと思う。十字架の苦しみの中でそれでも神に向かって叫ばれた、主イエスと共にこの道を歩こう。
♪自由への道(アイオナ共同体賛美歌)
自由への道 わたしと誰が行く
正義を求め 鎖を解くために
ゆるし続ける あざ笑われても
主イエスと共に この道を歩こう