『 苦難を身に負われる神 』

2016年3月13日(日)
イザヤ書63:7-10,ヨハネ福音書12:20-26

先週、「あの日」からまる5年目の3月11日を迎えた。大きな自然災害によって日々の平穏な暮らしが壊れ、家族や仲間の命が奪われた人々の悲しみはまだ癒えないだろう。

たびたび言うことだが、このような大規模災害が起こると、私たちの素朴な信仰は大きく揺さぶられる。「神さまは恵みをもって命を与え、それを守り導いて下さる」そう信じていても、ではその神さまがなぜあのような惨事を引き起こされるのか、という問いに答は見つからないからだ。

旧約聖書に登場する神は、しばしばそのような災いを、人間を懲らしめるために引き起こされた ― そのように受けとめられる物語がいくつも記されている。ノアの箱舟も、ソドムとゴモラの滅びも、人間の罪に対する神の罰としての物語である。傲慢になり自分の力を過信して主なる神を軽んじる人間たち。その罪人を、神は洪水で洗い流し、硫黄の炎で焼き払われる。

その文脈で解釈すれば、東日本大震災の出来事も、文明に頼り傲慢になった人間へのさばきの出来事ととらえることができるかも知れない。特に原発の事故は人間が自らの過ちによって引き起こした「人災」と言うべきだろう。

しかしなお、あの出来事を「神のさばき」とする解釈には、納得いかないものを感じざるを得ない。津波によって流され命を失った何万人もの人々。彼らは「罪人」だったのか?決してそうではないはずだ。そして同時に思う。私たちにとって神とは、人間を天の高みから見おろして、悪いことをしないか常に見張り、罪を犯せばさばきを下す、そのような恐ろしいイメージを抱かせるだけの存在なのか?と。

確かに旧約聖書にはさばきのイメージで語られる神の姿が多く登場する。しかし少し違うイメージで語れる神の姿もある。それが今日の箇所、イザヤ63章だ。ここに記されているのは「力と威厳に満ちた恐るべき神」ではない。むしろ「苦しむ人々と共に苦しむ神」である。

一方、新約でイエスが語るのは、自らが死んで豊かな実りを結ぶひと粒の麦のたとえ話である。芽が出て根を張り茎や葉を広げる。そうして実りを結ぶ頃には最初の麦の種は姿がなくなってしまう。そのようなありようを、「自分が死んで多くの人を生かす姿」だとイエスは語られた。ここにあるのも、人々を救い実りをもたらすために、自分は苦難をその身に負われるキリスト、神の姿である。

遠藤周作の『沈黙』では、キリシタン弾圧の試練の中で、信仰ゆえに苦しむ信者を前に神はなぜ沈黙されるのか?といった問いに対して、最後に神はこう答える。「わたしは沈黙していたのではない。あなたがたと一緒に苦しんでいたのだ。」

東日本大震災の現実の、いったいどこに神のみこころがあるのか?と問われれば「わからない」としか答えようがない。しかし私たちの信じる神は、苦しむ人々を天の高みから見物されるだけの存在ではなく、その苦しみを共に負われる存在である ― そう受けとめる者でありたい。