2016年3月20日(日・棕櫚の主日)
ヨハネによる福音書12:12-16
春の甲子園が始まった。入場行進をする高校球児の顔は喜びで輝いている。そこにはまだひとりの敗者もなく、みんなが栄光に包まれている。
エルサレムに入城するイエスの姿を、群衆は「ホサナ!(救いたまえ)」叫び、王の象徴であるしゅろの葉を振って迎えた。日曜日の出来事だ。その群衆が、5日後金曜日にはイエスを「十字架につけろ!」と狂ったように叫んだ。ピラトはイエスをゆるそうとした。しかし群衆は「バラバ・イエスをゆるせ!」と応じた。いったい何があったのか。
バラバは「人殺しをして投獄されていた暴徒」とあるが、一説によるとユダヤの解放を武力で勝ち取ろうとした人物だということだ。現在で言えば「民族主義テロリスト」といったところだろうか。諸外国の支配の歴史に終止符を打つ人物として、ユダヤの人々にはイエスよりもバラバの方が頼れる存在だと感じたのではないだろうか。
ユダヤ人は長い間、諸外国の圧政からイスラエルの民を救ってくれるメシヤ(=キリスト=救い主)を待ち望んでいた。ナザレのイエスの振る舞いや言葉に触れた人々は「この人こそメシヤではないか」と思い始めた。エルサレムの群衆だけではなく、イエスに従った弟子たちもそう考えていたと思われる。
そのイエスがいよいよエルサレムに向かわれる…。弟子たちは「遂に都の神殿貴族や律法学者の支配を打ち破り、ローマ帝国の支配からも民を解放される、その働きが始まる!」と期待した。
その期待の中を進むにあたって、イエスは一つのパフォーマンスを演じられた。あらかじめ仕込んでおいたろばの子に乗って、よたよたと都に向かわれたのである。その昔預言者ゼカリアが語った「平和の王」の姿を、自らの歩みを通して示されたのである。
それはみすぼらしい姿であった。みじめな姿であった。威力を誇る軍事パレードの中を、三輪車に乗って進むようなものだった。迎える人々の中に「あれ?これは何か変だぞ」という違和感が広がる。そしてそれが失望に変わった時、掌を返したように「あいつを十字架につけろ!」と叫ぶに至ったのだ。そんな「力を求める人々」に向かって、イエスは全身を込めて、それこそ自分の命を賭けて平和へのメッセージを示されたのである。
人間の心の中には、一方に力を持ちそれを誇示することによってわが身を守ろう、利益を得て秩序を保とうとする思いがある。しかし一方には、力によらず、むしろ小さき者・弱き者を中心にして平和を育もうとする思いもある。今私たちの国は、前者の思いによって進路を変えようとしている。そんな時代の中を、イエスが示された「ろばの子の思想」を大切に歩む者でありたい。