『 隣人のためにあるいのち 』

2016年3月27日(日)イースター礼拝
ヨハネの手紙 Ⅰ 3:11-18

イースター、よみがえりの朝。復活されたイエス・キリストが自分から近づいてきて「おはよう」「あなたがたに平和があるように」とあいさつをされた。このことを想い起す意味も含めて、初代教会では礼拝での「平和のあいさつ」が大切なものとして交わされていた。

「あいさつなんていつでもできる。礼拝の中でやらなくてもいいではないか…」と思われる人もいるかも知れない。しかし「いつでもできる」と思っている私たちの人生は、いつどうなるかは分からない。今日元気で出会いあいさつした人が、事故や災害で帰らぬ人になることもある。9.11.のテロ事件で家族を失った人が「これが最後だと分かっていたら」という文章を記した。そこには「何気ない今がいかに大切か」という思いが綴られていた。

イエスの弟子たちも、棕櫚の主日に「ホサナ!」と言って迎えられた時には、イエスとの別れがこんなに早くやって来るとは思いもしなかっただろう。

しかしその日は突然やってきた。しかもイエスが十字架にかけられるその日に、彼ら弟子たちは師であるイエスを見捨てて逃げた。ペトロに及んでは「あんな人知らない!」と言って3度にわたって師を裏切った。彼らは絶望のどん底に叩き落された… いや自らその道を進んでしまったのだ。

日曜日の朝、そんな彼らによみがえったイエスの方から近づいてきてあいさつをして下さった。そのあいさつは心に沁みたことだろう。そして彼らはイエスの語られた言葉を想い起し、自分たちの進むべき道をその時はっきりと悟ったことだろう。

「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」「互いに愛し合いなさい。友のためにいのちを捨てる、それよりも大きな愛はない。」これらの言葉を思い返しつつ彼らは悟った。イエス・キリストの生涯、それは「隣人のためにあるいのち」だったということに。そして「隣人のためにあるいのちは消えない。たとえ死んでも終わらない」ということを強く強く心に思ったことだろう。

東日本大震災の津波で最愛の父親を亡くされた当時高校生だった女性。父は消防隊員として水門を閉めに行こうとして命を落とされた。直後は「どうして危険な中、行かねばならなかったのか」と母親を問い詰めたこともあったという。しかし5年の月日の中で、むしろ今は住民の命を守ろうと行動された父を誇りに思うようになった。「私も父親の背中を胸に人の役に立てる人になりたいと思い、看護士を目指しています。」と追悼式典で語られた。隣人のためにあった父のいのちが、今も娘さんに働きかけ、歩み道を示しておられるのだと思う。

隣人のためにあるいのちは消えない。たとえ死んでも終わらずに、今を生きる人々に働きかけ導いてくれる ― それがイースターのメッセージではないだろうか。そのことを信じ、自分もまた隣人のためにあろうとする。その時初めて私たちは本当の復活のいのちを知ることができるのではないか。

『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』
(ヨハネの手紙 Ⅰ 3:16)