『 福音のためならどんなことでもする 』

2016年4月24日(日)
第一コリント9:19-23

今日は年に一度の教会総会の日。年間標語は昨年に引き続き「前に向かって橋をかけよう」を提案する。迎える130周年の節目を、単に過去を懐かしむだけでなく、次の世代の人々へふさわしい形で引き継いでいけるような取り組みを目指したい。

現在、130周年の諸行事に向けて準備を進める中で、前橋教会は活気がある。それらの事業を担う募金も順調に献げられ、充実した形で事業を担えることを感謝している。しかし、私たちの教会の実情を冷静かつ客観的に見つめるならば、教会の将来像について決して楽観できないことを感じている。

前橋教会には大きなピークが二つあった。第一のピークは明治・大正期の群馬のキリスト教の拠点であった時期。宣教だけでなく、教育(共愛学園、清心幼稚園)、福祉(上毛孤児院、前橋盲学校)、それに政治の世界でも前橋教会員が活躍していた。しかし日本の軍国主義化の歴史の中で次第に衰退し、敗戦の年には空襲で会堂も焼失した。

戦後はゼロからの出発であったが、戦後民主主義と共にやってきたキリスト教ブームに乗って急成長を遂げた。その力を用いていくつかの会堂建築、墓地の建設、パイプオルガンやエレベーターの建設に取り組んできた。

しかし今前橋教会は第2のピークが緩やかに下降しつつある状況を迎えている。前橋という街もまたかつてのような勢いを失ってきている。そんな状況の中、「前に向かって橋をかける」ということは、簡単なことではない。

そんな中で私たちはどうすればよいのか。二つのことを提案したい。ひとつは「私たちは何を語ることができるのか」。現代の日本という社会、前橋という街の人に向けて、どんなメッセージを届けようとしているのか、どんなメッセージが社会に必要なのか、その軸をしっかりと意識すること。

もうひとつは、その軸となるメッセージを届けるためならば、「どんなことでもする」。特に若い世代に人々に届ける、そのためならば一つの形や従来の伝統や習慣に縛られず新たなことにも取り組む、という覚悟を定めることだ。

パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持つ人には持つ人のように、律法を持たない人には持たない人のように」と語る。人によって態度をコロコロ変える、それはある意味では主体性のない「コウモリ」のような存在、信用できない姿ともとらえられかねない態度だ。しかしパウロがそんなリスクを伴う行動を選ぶ理由、それは「何とかしてひとりでも多くの人と出会い、福音を伝えるため」であった。

IPS細胞の研究者・山中伸弥教授(ノーベル賞受賞者)があるインタビューの中で語っておられた話が印象的であった。教授の関わる研究の世界は競争が激しく、他所よりも早く論文を発表できるかどうかが肝要となる。論文を掲載する雑誌の編集者は女性が多く、その人たちに名前をファーストネームで呼んでもらうために、様々なことをするという。ニガ手なダンスを踊り、ワインを注ぐ。「名前を憶えてもらうためなら芸者になる」と言っておられた。「そこまでして名誉にこだわるのか」と思ったが、そうではなかった。

早く発表したチームが特許を取ることができるのだが、アメリカのチームなどは莫大な研究費をつぎ込み、特許を取るとその費用を回収するために、薬に破格な値段をつける。すると人の命を救う薬なのに、それを使える人と使えない人が出てしまう。「それをなんとかしたい」と語っておられた。「少しでも安い薬を開発し、人の命を救いたい。そのためなら芸者にだってなってやる!」それが山中伸弥の覚悟である。この覚悟に私たちも学びたい。

イエス・キリストの福音には、世代や状況を超えて人々の心に迫る「底力」がある。その底力を信じ、その福音を伝えるためなら「どんなことでもする」。その覚悟を定めて宣教に励みたい。