2016年5月1日(日)
ローマの信徒への手紙8:35-39
創世記のイサク物語の中に、ペリシテ人と井戸を巡る争いの記述がある。イサクが次々掘り当てる井戸の水を、ペリシテ人が「この井戸は我々のものだ」と所有権を主張すると、イサクは譲歩と退去を繰り返す…というものだ。
現代の外交戦略においては、「領土問題は譲ったらダメ。一度譲ったら最後、相手はつけ上がる」と言われる。しかし物語では、何度かの譲歩をした後に、イサクは自分だけの井戸を手に入れる。するとその姿を見ていたペリシテの王アビメレクは、主なる神がイサクと共にいることを感じ、契約を申し出た。
井戸を巡る争いでイサクは勝ったのか、負けたのか。
思い出したのは「正直夫婦の馬」という秋田民話だ。大切にしていた馬を貧しさのために手放す農夫。最初馬を子牛と交換し、次に豚、次に鶏、最後には饅頭と交換してしまう。「おまえはきっと女房に怒られる。賭けてもいい」と隣人は言うが、女房はその饅頭を大そう喜んだ。賭けに勝った農夫は一生分の饅頭代を手に入れた…。
短期的には失敗に見えても、我欲への執着から解放されたその振る舞いの中に、あなたの知らなかった豊かさやしあわせがあるのかも知れないよ…そんなことをこれらの物語は語っている。一見すれば負けに等しいことの中から、新しい関わりが創造されることがあるのだ。
ヨハネ福音書における弟子たちへの最後の説教で、イエスはこう語られた。「あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。イエスがこれから向かわれるエルサレムでの十字架への道。それはある種の「敗北の道」だ。しかしイエスは「私は既に勝っている。最後に私は勝つ。」と言われる。そのイエスの勝利とは何のことを言うのだろう?
「イエスは復活の勝利のことを知っておられた。だからこう語られたのだ。」ととらえることもできよう。しかし私はそのような先取りされた確信ではなく、予測のつかない不安な未来に向けてそれでも確信を抱いて歩もうとするイエスの息づかいを感じる。「神はこの世を愛された。その愛を伝え示すために私は歩んできた。私の闘いは負けるかも知れない。しかし神の愛は負けない。負けてたまるか。」それがイエスの思いだったのではないか。
「艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、剣も、死でさえも、キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」そのようにパウロは確信を持って語る。そんなパウロならこう言うだろう。
「どんなに困難で、挫けそうでも、信じることさ、必ず最後に神の愛は勝つ。」