2016年5月15日(日) ペンテコステ礼拝
エゼキエル37:7-14、ヨハネ14:25-27
枯れた骨のようになって、憔悴し切って横たわる… そんな夜を過ごされたことがあるだろうか。自らの失敗、人間関係の悩み、大事な人を失った悲しみ…。そんな時は身も心も疲れ切っているはずなのに、眠れないものだ。人間の心は弱く、脆く崩れやすい。誰もがみなそのような状態に陥る可能性を持っている。
しかしその枯れた骨の上を神の霊が通り過ぎると、骨の上に肉が生じ、筋が現れ皮膚が覆い、彼は再び立ち上がる ― エゼキエルはそう預言する。エゼキエルが語る「枯れた骨」とは、具体的にはイスラエルの民のことであると言われる。バビロン捕囚の絶望の中で自暴自棄に陥る民に向かって、エゼキエルは神の霊(聖霊)による「枯れた骨の復活」を語る。それは、憔悴し眠れぬ夜に悩み人に「大丈夫、必ず朝は来るから。眠れる日が来るから。」と語るようなものである。
ペンテコステの出来事。それもまた「枯れた骨の復活」と言える出来事である。大事な師であるイエスが十字架に架けられてしまった。その最大の試練の局面で、あろうことか自分たちはイエスを裏切ってしまった。自分たちの失敗と大事な存在を失った悲しみで、何日も眠れぬ夜を過ごしたことだろう。
しかしそんな彼らのところに、激しいふしぎな風が吹いてきて、頭の上に炎のような舌のようなものが止まると、彼らは突然強められ立ち上がって、人々にイエス・キリストの出来事を伝え始めていった…。聖書に記される聖霊降臨の物語である。それはイースターの朝から50日目の出来事であった。
聖書では、聖霊の導きによって突然弟子たちが変えられたと記されているが、実際には50日の時を経て、徐々に少しずつ回復へと導かれていったのではないかと想像する。どんなに絶望に沈んでも、しばらくの期間の後に必ず回復の道が備えられる。聖霊は枯れた骨のような日々に、いのちを回復させて下さる。大丈夫、50日もあれば…そんなメッセージを受けとめたい。
イエスは「わたしがいなくなると、神は弁護者をつかわして下さる」と語られた。「弁護者」=パラクレートス、それは「傍らに立つ者・傍らで叫ぶ者」、それが聖霊の導きだ。聖霊の導きは「私が教え話したことをことごとく思い起こさせる」と言われる。現実の苦難の中で見失っていた大切な真理に、もう一度気付かせてくれる、ということだ。その気付きが、私たちに新たないのちを注いでくれるのだ。
イエスは「私はあなたがたに平和を与える」とも言われた。「私が与える平和は世が与えるようなものではない」と。ローマ帝国のように力で押さえつけて表面上の平和を保つのではなく(パックス・ロマーナ)、イエスがなさったように小さく貧しいものを中心に置き、人々が互いに愛し合う、愛を基に据えた平和である。
今私たちの国は「平和」について、とても大変な局面を迎えている。いのちと平和を与える聖霊の導きを信じ、今の時をふさわしく生きよう。