2016年6月19日(日)
ヨナ書4:1-11、エフェソ2:13-22
東京都の知事が辞任した。お金の使い方については問題を感じるが、それを追求する人々のあまりの細かさに、少し辟易としてしまった。「これは経費で落ちますから…」「そう?じゃ、ごちそうになるかな…」そういったことは、誰しも心覚えのあることではないだろうか。「あなたはそういうことを一度もしたことがないのか?」と返したくなるくらい、正義面をして非難する人の姿が気になった。
イエスが姦淫の罪で捕らえられた女性の前で、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が石を投げなさい」と言われた出来事を思い出していた。私たちの心の中には、罪や過ちを犯した人間が裁きを受ける姿を見て、それを喜ぶ心情が宿っていると思う。
「狼少年のパラドクス」という言葉がある(@内田樹)。人々に危機を伝え警告を発していた狼少年。しかしその警告が2度3度とはずれ、みんながその声に耳を貸さなくなると、いつしかその警告通りのことが本当に起こることを望むようになる…「そらみたことか!オレは正しかったぞ!」と言いたい気持ち。それが「狼少年のパラドクス」だ。
旧約聖書の中にこのパラドクスに囚われた人物が登場する。預言者ヨナである。暴虐に満ちた異邦人の街・ニネべに対し、神の滅びを語る使命を受けたヨナ。最初彼はその召命を拒むが、途中で心を入れ替えて、神から託された使命を果たすためニネベに向かい、その街に滅びが降ることを預言する。
ヨナの言葉を聞いて、ニネベの人々は悔い改めた。すると神はその姿を見て、街に滅びを降すことを取りやめられた。これに対しヨナは不平を抱く。「私の立場はどうなるのだ!」と。神は「とうごまの木の出来事」を通して、ヨナの不遜さを戒められた。
この一風変わった物語は私たちに何を伝えるのか?ひとつは、「裁きを降すかどうかを決めるのは神であって、人間であるあなたではない」ということ。そしてもう一つ、「神は裁きの神ではなく、救いの神である」ということだと思う。旧約の神は「裁きの神」のイメージが強い。しかしヨナ書のようなメッセージがあることを忘れないようにしたい。
エフェソの異邦人教会では、「異邦人が救われるのに、割礼を受けユダヤ人になる必要があるか」ということが大きな問題となっていた。割礼の必要性を主張する保守派の人々に向かって、パウロは「異邦人は異邦人のまま救われる」ときっぱりと主張した。パウロもかつてはひとりのファリサイ人として「裁きの神」を吹聴していた。しかしイエス・キリストを通して神の赦しを確信した彼は、以後の生涯を「救いの神」の宣教のためにささげていく。
「イエス・キリストの示された神は、裁きの神ではなく、救いの神である。」そのことを信じよう。神の裁きを望むのではなく、神の救いをこそ願い求め、そして自分もまたその赦しを感謝して受ける者となろう。ただ、忘れてはならないのは、神は私たちの過ちを赦しては下さるけれども、けっしてそれを見過ごしにされる方ではなく、一方では厳しくそれを問われる方でもあるということだ。神が与えて下さる救いに甘え切ってしまうのではなく、その赦しにふさわしい歩みを目指す者となろう。