2016年7月10日(日) 創立130周年記念礼拝
ヨハネによる福音書5:1-9 岡山孝太郎先生
私が読む度に胸を熱くする聖書の箇所がある。「既に夜が明けたころ、イエスが岸辺に立っておられた。」(ヨハネ21:4)よみがえりのイエスが岸辺に立っていてくださる。それは困難に時代に希望を与えてくれる聖書の言葉である。
今日の箇所にはそれとはまったく別の事柄が記される。大勢の人が集まるベトザタの池の傍にひとり佇む男。38年間病気に臥せり、水が動くのをひたすら待ち続けていた。水が動いて最初に飛び込んだものは癒されると信じられていたからだ。しかし同じような思いを持つ者にいつも先をこされて、38年間座り続けてきた。「捨てられた男」である。
私が京都の教会にいた頃出会ったひとりの少女のことが忘れられない。幼稚園の頃からとても優しい子で配慮の出来る子だった。しかしその優しさが仇となり、やがて高校でいじめの対象となった。私が会った時、少女は夏なのにリストバンドをしていた。自ら命を絶とうとした跡だった。「人が生きる」とは居場所があることである。彼女には居場所がなかったのだ。悲しい表情をしていた。
今日の箇所の男にも、居場所がなかった。病気ゆえに「神の裁きを受けた者」と呼ばれ、家族からも捨てられた。家族や仲間に対する恨み・憎しみ、支えてくれる人がいない!という心の叫び。ベトザタの池は、そんな捨てられた者同士が最後の奪い合い・切り捨て合いをする場所だった。
そんな彼に、まったく違ったまなざしが注がれる。イエスのまなざし。彼は38年間の間で初めて「人間のまなざし」を感じたことだろう。イエスは彼に「治りたいのか?」と尋ねる。それは「本当に人間として生きることを願っているのか?」という問いかけである。彼は自分の「弱さ」に手こずっていた。「弱さ」故に起こる関係の破壊・断絶。それは私たちの時代にも深く刻まれる痛みである。
しかしイエスの下で「弱さ」は違う展開を見せる。「キリストは弱さの故に十字架につけられましたが、神の力によって生きているのです」(Ⅱコリント13:4) 弱さを神が用いて下さることによって新たな世界が開ける。弱さにびくつくのではなく、人と関わり合うためにいかに弱さを用いるかが問われるのである。
「絆(きずな)」という言葉には「ほだし」というもう一つの意味がある。牛馬をつなぎ留め動けなくさせる綱のことである。本当の「きずな」は、「ほだし」の苦しみ・悩みを通らねば生まれない。イエスは弱さ・苦しみから逃げ出す場所を提供されるのではない。「弱さ」の意味を作り変え、希望を生み出す方なのだ。
イエスが朝風と共に岸辺に立っておられる。そこが教会のスタートラインである。
(文責=川上 盾)