2016年7月24日(日)
ヨハネ福音書6:41-59
あるキリスト教主義学校の修養会に講師として参加した際に、開会礼拝でアガペー(愛餐の食事)にあずかった。アガペーとは初代教会で礼拝中に行なわれていた共同の食事で、後に聖餐と呼ばれる「主の晩餐」とは別に行われていたものだ。神妙な顔をしてパンを食べていた中高生たち。「みんな招かれている。みんな仲間。」そんな雰囲気に包まれていた。
その光景を見ながら、以前本で読んだアメリカのある教会でのエピソードを思い出した。宣教師として赴任したばかりの日本人牧師。家族と共に礼拝に参加していたが、その教会では礼拝出席者全員が参加する形で聖餐式を行なっていた。自分の息子は洗礼を受けていない… 躊躇する彼が同僚のアメリカ人牧師にそのことを告げると、その牧師はにっこり笑ってこう言ったという。「イエスが招いておられるのだよ。私たちは神の家族ではないか。」その言葉に背中を押されて、家族そろって聖餐にあずかったという。
今日の箇所は教会にとって大切な儀式の一つである聖餐式をめぐる箇所である。イエスは「私は命のパンである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は死なない。永遠に生きる。」と言われる。このヨハネの記述には、この福音書が記された時代には教会でひとつの儀式として定着していた聖餐式の理解が影響を与えていると言われる。
司祭が祈りを唱えると、パンがキリストの肉となり、ぶどう酒がキリストの血となる。文字通り実体変化する考え方、これを「仮体説」という。ローマ帝国がキリスト教を弾圧するに際して、ひとつの理由として挙げられたのが「人肉を食らい、人血を飲む野蛮な秘密教団」というものであった。カトリック教会では現在でも公式にはこの理解に立っている。
我々プロテスタント教会では、仮体説は取らない。パンはパンのまま、ぶどう酒(ジュース)はそのままだが、それを信仰によってキリストの体と血を象徴するものとして受けとめる(象徴説)。信仰を持たない人にとってはただのパンとぶどう酒であるが、信仰によってそれを「キリストのからだ」と受けとめ、それを食べそれを飲んで自分の身体の中に迎え入れる。そのような考え方である。
「このパンを食べこのぶどう酒を飲む者は、死なない。永遠に生きる。」とイエスは言われる。しかしパンとぶどう酒が不老長寿の薬になるわけではない。食べた人にも肉体の死は訪れる。けれども、その肉体の死がすべての終わりではないという信仰に導かれる… イエスの言葉をそのように受けとめたい。
聖餐とは自分にとって何なのか?それを受けることができるのは誰か、どんな人が受けるのにふさわしいのか?このことをめぐっては、いろんな考え方がある。一つの理解を「正解」と固定化したまま「思考停止」に陥るのでなく、多種多様な考え方を知り、これと出会いながら考え続けてゆきたい。