『 神の勝利を信じて 』

2016年7月31日(日)
士師記6:36-40、ヨハネ7:1-14

リオ五輪を前に、ロシアの国家ぐるみのドーピング疑惑が取り沙汰されている。どんな手を使ってでも勝てばよい… そんな勝利至上主義的な考え方が背後にある。ドーピングに於いてはクリーンと言われる日本選手にもその意識は及んでいる。「皆さんの期待に応えられなくてすみません」とインタビューで答える姿に切なさを感じる。過去にはそのプレッシャーに押しつぶされて、自ら死を選んでしまった選手もいた。

旧約の箇所は、神の力によって敵対するミディアン人との戦いに勝利した、イスラエルの士師(民族主導のリーダー)・ギデオンの物語である。敵に対して300人の少数精鋭で勝利を得た有能な指導者であり、ヘブライ書では信仰の先達と評される人物であるが、士師記におけるギデオンは結構弱気で自己評価の低い人物として描かれる。神の召命に対して、何とかしてそれを免れようとする姿。思えばモーセも神から召命を受けた時には、同じような振る舞いをしていたのを想い起こす。

自信満々で、知力と気力に満ち溢れていて、筋骨隆々で… そういう人物が神の使いにふさわしいというわけではなく、慎重で自信なさげな人がかえって選ばれるというパターンがある。なぜなら、そのような人は自分の力に頼るのではなく、神の力に頼らざるを得ないからである。

ミディアン人との戦いに臨むにあたり、ギデオンは最初3万2千人の同朋を従えて行った。しかし神は「それでは多すぎる」と言われ、その数を300人にまで減らされた。数が多くて勝利をしたら、きっと人間は「自分の力で勝利を得た」と思いあがるであろう、というのがその理由である。

新約聖書にはイエスと、イエスの兄弟(家族)とのやりとりが記される。ユダヤ人エリートと対立するメッセージを、ガリラヤにおいて語るイエスに向かって、イエスの家族のひとりが言う。「そんなに言いたいことがあるなら、エルサレムに行って堂々と語ればよい。」しかしイエスは「今はその時ではない。」とその申し出を拒む。ところがその後、隠れるようにエルサレムへ向かって様子を探り、ある時決然とメッセージを語りだす。何とも首尾一貫しない、イエスの心の「ゆらぎ」を感じる。

「神の勝利を信じる」とは、ゆるぎない自信を心に抱いて事に向かっていくことなのだろうか?そうでなくてもいいような気がする。不安や恐れや迷いがあってもよい。ひょっとしたら当面の戦いでは負けてしまうかも知れない。けれども、きっとその先に神の勝利がある。そう信じて自分を前に進めることではないか。

イエスの十字架も短期的には敗北である。迫りくる苦難を前に、恐れと不安の思いをかかえながらイエスはゲッセマネで祈られた。しかしその先にある神の勝利を信じていたからこそ、イエスは十字架への道を避けることなく進まれたのだ。