『 隔ての垣根を越えて 』
2016年8月7日(日) 平和主日礼拝
エフェソの信徒への手紙2:14-22(8月7日)
世界の国々で、異なる国民・民族同士の対立を煽り、自国・自民族優先の主張を強弁する指導者が増えている。アメリカのトランプ現象、イギリスのEU離脱、日本のヘイトスピーチ…。その根底にあるのは、「まず自分たち」の優勝劣敗に殊更にこだわる「ナショナリズム」である。
世界の国境を越えて人とモノとカネが行き交う「グローバリゼーション」の時代なのに、なぜ…?といぶかる声もあろう。しかしある意味では、グローバリゼーションが広く行き渡ったがために、このような動きも出てきたと言えるのではないか。もともと私たち人間は、異なる存在(他民族、他人種、他宗教)の人々と、共に生きることがニガ手な生き物なのかも知れない。人間とは、知らないうちに「隔ての垣根」を作り上げてしまう、ナショナリスティックな存在なのかも知れない。
しかし「だから対立も仕方ない」と立ち止まってしまうわけにはいかない。そのような人間の「性」(さが)を越えて、人権や共存、平和を確立しようと、それこそ命がけで取り組んできた多くの先達たちの歩みを知っているからである。その歩みの尊さを信じ、そしてそこに自分も一歩を加えようとすること。そこから平和への歩みが始まるのだと思う。
イエス・キリストは2000年前、人権とか平等が確立されていなかった時代に、この「隔ての垣根」を越えようとされた。イエスはあらゆる場面、あらゆる関わりの中で、垣根を越えられた。ユダヤ人と異邦人、男と女、「義人」と「罪びと」、子どもと大人… 敵との間の垣根さえも。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
なぜイエスはそのように考え、そして行動できたのだろうか?それはイエスが「神のまなざし」を常に携えておられたからだと思う。虫のように身近なものだけしか見ないで過ごしたのでは、自分の利害しか考えられなくなる。しかし鳥のように俯瞰する眼差しを想像することによって、自己を相対化しむしろ共存への糸口を見出すことができるのではないか。ふだん見慣れた地図では、近隣諸国が利害の対立する国々にしか見えない。しかし、視点を変えることによって、おなじ湖のような海を囲む仲間に見えてくる…。そんな「神のまなざし」を尋ね求めることが、イエスのあのような生きる姿を生み出したのではないか。
イエスは「隔ての垣根」を越えまことの平和をもたらすことを教えるために、命を捨てて下さった。イエスが命を賭けて関わって下さったこの世界に、私たちの不快感・わだかまり・憤りといった「ちっぽけ」なもののために、分断や対立や命の破壊を持ち込んではならない。そんな節度を大切にして、真の平和を目指して歩みたい。